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編集部員も泣いた!「小泉純一郎の弔辞」全文掲載

プレジデントオンライン / 2016年10月13日 6時15分

8月28日に行われた「小泉道子さんお別れの会」にて。参列者を見送る、左から小泉純一郎元首相、長男の孝太郎氏、次男で自民党農林部会長の進次郎氏。

■お前のママは、本当の母親じゃないんだよ……

8月28日に神奈川県横須賀市の斎場で行われた小泉純一郎元首相の姉、小泉道子さん(享年84)のお別れの会に、小泉家のメンバーが一堂に会した。喪主を務めた小泉純一郎元首相、長男で俳優の小泉孝太郎氏、次男の小泉進次郎衆議院議員、元首相の姉、信子さん、弟の正也さん、道子さんの娘、純子さんの姿もあった。以下に掲載するのが、長年小泉ファミリーの取材を続けてきた編集部デスクも感極まって涙した純一郎氏の弔辞である。

「本日は皆さま、お忙しいにもかかわらず、ありがとうございます。

亡くなる前日の午後、私が病院に見舞った際に、『身体のどこか痛いか』と聞きました。『痛くないか』と言ったら、首を横に振って、目を閉じたまま『ああ、ああ』と何か言いたそうでした。その日の夜、進次郎が見舞いました。その際、進次郎が『進次郎だよ』と言ったら、ぱっと目を開けて、ぐっと首を下げました。

その翌朝、病院の院長先生、看護師の方、そして同じ部屋に寝泊まりしておりました純子に見守られ、穏やかに、永遠の眠りにつきました。

故人は、生前本当に多くの方に慕われました。弟の私が言うのも何ですが、故人は本当によくできた人だと思っております。優しく、謙虚で、しかもしっかりと我々、留守がちの小泉家を守り続けてくれました。

私が妻と離婚したとき、孝太郎は4歳、進次郎は1歳でした。その時、家族、道子をはじめ家族が協力して、孝太郎、進次郎に寂しい思いをさせてはいけないと思って、できるだけみんなで協力しようと。なかでも、母親代わりとして中心的な役割を果たしてくれたのが、故人でありました。

孝太郎、進次郎は、2人に加え、弟の子どもなど6人兄弟の中で孝太郎、進次郎は育ってきたと思います。幼児のときは常に、夜は一緒に添い寝してくれて、学校に見送り、帰る。帰ったら、必ず『ママ』がいる。母親代わりに育った孝太郎、進次郎には『ママ』と呼ばせておりました。外に出ても、帰ってくれば、ママはうちにいて優しく、温かく、明るく迎えてくれる。これは、孝太郎、進次郎の精神安定に大きく寄与していたと思っております。

いつか本当のことを孝太郎、進次郎に言わなければいけないと思っておりましたが、なかなか言いそびれておりました。孝太郎が高校2年生、進次郎が中学2年生になって、2人を呼んで本当のことを伝えました。『ママは私の姉なんだ』と言ったら、進次郎は『うそ!』と言いました。(号泣)

『いや本当だ。孝太郎、知っているか』と聞くと、『知っていた』。『進次郎に言わなかったのか』『言わなかった』。

ああ、そうか。高校2年生だけど、言ったほうがいいこと、言わないほうがいいこと、わかっていたんだ。いい子に育ってくれたなと思いました。

『進次郎、ママは母親じゃないんだよ』と言うと、『ボクにとっては本当の母親だよ』とはっきり言いました。道子は母親代わりじゃない。実の母親として、孝太郎、進次郎を育ててくれたんだなと。改めて感謝しています。

晩年になって、もう手をかけなくていい。放っておいても大丈夫だと思っているようでしたけれど、故人にとっては孝太郎、進次郎が健やかに成長しているのが何よりの生きがいだったと思います。我々は留守しがちですが、その中でいつも、帰ってくれば道子がいる。我々の帰りを待って、毎日家におりました。

晩年は孝太郎、進次郎が社会に出て、テレビや新聞で活躍しているのを、大変楽しみにしていたようです。休みのときに出掛けるときは、いつも一緒。孝太郎、進次郎は6人の中で元気に育ってくれた。その中心的支えをしてくれたのが、故人、道子でありました。

もちろん近所の方々、お茶をたしなんでいる方々、そして、小泉家に携わる多くの皆さまの温かいご支援があったからこそ、最後まで、死ぬ直前まで、意識がはっきりと、安らかに永遠の眠りについた。大変代えがたいことだと思っております。今日もこうして皆さんにお越しいただき、ありがとうございます。泉下で故人も手を合わせて感謝していると思います。

皆さまのご温情に厚く御礼申して、喪主のあいさつに代えます、皆さま、本当にありがとうございました」

■小泉家を支えた姉の存在の大きさ

小泉家の人々が、公の場に一堂に会する機会はあまりない。加えて、孝太郎、進次郎両氏が、プライベート以外の場で同席する機会も同様だ。小泉家は結束力の強さ、絆の固さで知られる。それだけに、小泉元首相も弔辞で述べたように、一家を陰で支え続ける中心的な役割を果たした故人をしのぶお別れの会という場で「そろい踏み」となったことは、小泉家の悲しみの深さを、参列者に感じさせる機会になった。

小泉家は、進次郎氏で4代目となる政治家の家系だ。初代の又次郎氏(純一郎氏の祖父)は、1908年の衆院選で初当選し、政界入りした。その後、防衛庁長官を務めた純也氏、5年5カ月にわたる長期政権を築いた純一郎氏と続き、今や「将来の首相候補」といわれる進次郎氏まで、実に100年以上にわたり、政治家という「家業」が続いている。

なかでも、日本政治史に残る一時代を築いたのが純一郎氏。父純也氏の急死で、留学先の英国から急きょ帰国し、69年の衆院選に出馬するも、落選した。当時、世襲の新人候補(ほかに小沢一郎氏、佐藤観樹氏)で落選したのは、純一郎氏だけだった。72年の衆院選でリベンジを果たし、自民党、政界でじわじわと頭角を現す存在になっていった。

国会議員時代は、地元と永田町を往復する生活。自宅に帰っても、すぐ東京に戻らなくてはならず、ほとんど家にはいない状態だった。妻と離婚した後、まだ幼かった孝太郎氏や進次郎氏は、寂しい思いをすることも多かったようだ。そのとき、「母親」となって2人を育てたのが道子さんであり、地元の人々だった。

純一郎氏は国会議員時代、「変人」と言われ、それが代名詞でもあったが、本人は「私は常識を信じる、常識人だ」と語る。「変人」「非情」など、刺激的なキャッチフレーズから、親子関係もドライだと思われがちだが、子どもたちが小学校のころは、忙しい合間を縫ってキャッチボールに興じるなど、短くても濃密なコミュニケーションを取るようにしていたという。

進次郎氏は、父との関係に関して、福島県会津若松市で中学生を前に講演をした際、こんなエピソードを披露したことがある。

「中学3年のときの三者面談で、先生は『小泉くんには、もう少しリーダーシップをとってみんなを引っ張ってほしい』と言われた。すると父は、『進次郎はこのままでいいんです。政治家の子どもは、何をしても何か言われる。私も親が政治家だったから、あまり目立たないようにしようという進次郎の気持ちが、よくわかる』と。自分もそう思っていた。父は、自分の思いを代弁してくれた。忙しくて会えなくても、ちゃんと自分のことを見てくれていた。そのときの強烈な感謝の思いは、今も忘れません」

今は、2人の息子たちが逆に、政界を引退した父親よりも忙しくなった。それでも、時間を見つけて家族で食事をすることも多いそうだ。小泉道子さんのお別れの会では、父が時に絶句しながら弔辞を読み上げる姿に、2人の息子たちも時に涙をぬぐいながら静かに聞き入った。メディアで、一挙手一投足が注目されることも多い小泉家。普段、なかなか垣間見ることがない「普通の家族」としての姿が、そこにはあった。

(プレジデント編集部)

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