レスリング、柔道に続きパリオリンピックで日本のメダル獲得数が3番目に多かったフェンシングの特集です。史上初の金メダルなど、快挙も達成したフェンシング日本代表の選手を支えていた秋田市出身のコーチを取材しました。
パリオリンピックの閉幕から1週間半後。
秋田市で、小中学生が中心のフェンシングの合同練習が行われていました。
指導しているのは、日本フェンシング協会に所属する秋田市出身の松岡慧さん33歳です。
「ロンペドゥしたみたいに…ジャンケンぽい。だからマルシェファントする時に、勝った方がロンペで逃げる。いいかな?」
松岡さんは胴体にだけ攻撃できるフルーレの、パリオリンピック日本代表アシスタントコーチを務めていました。
パリオリンピックでフェンシング日本代表は世界で最も多い5つのメダルを獲得し、歴史を大きく塗り替えました。このうち松岡さんが支えた男子フルーレ団体はパリオリンピックで史上初の金メダルに輝き、女子フルーレ団体も銅メダルを獲得しています。
松岡さんは“選手1人1人の気質にあった指導を行う”ことをモットーに掲げています。この日の練習はゲーム要素を盛り込んで楽しみながら基本の動きを確認しました。
休憩中も選手が続々と松岡さんにアドバイスを求めにやって来ます。
相談に来た女子選手 「今エペもやってかなきゃいけないから」
松岡さん「個人的にはどっちに本腰入れてるの」 選手「今はフルーレやりたいなと思ってるけど」 松岡さん「エペもちょっと残ってるもんね」
昆凛叶選手
「勝った瞬間とかって自分もやったーみたいな」
松岡さん
「そうだね、おれもやったーってなったし、みんなその勝ちたい人たちが当然集まってるから、すごいプレッシャーとかすごかったね。だから、それに悩んでる、選手たちが悩んでる姿も見てたから、なんかやったーって喜んだのと、なんかちょっとほっとした」
津谷龍星選手
「さとし先生は、アドバイスを求めた時に、具体的に、分かりやすく新たな視点で答えてくれるので、いろいろ自分になかった気づきとか、いろいろ今、気づかされました。」
いまは支える立場になった松岡さんも、かつてはオリンピック出場を目指して第一線で活躍していた選手でした。選手時代は国体=いまの国民スポーツ大会で3度頂点に立ったほか、年齢別の世界選手権にも2度出場しています。
松岡さんが指導者に転向したのは8年前、25歳の時です。けがなどが理由で現役を続けることを断念して選手のサポートに回りました。
世界で活躍する選手をサポートする日々の中、時間を見つけて地元・秋田の選手育成にも励んでいる松岡さん。自身が選手だった時、地元の人たちから受けた声援がその大きな原動力になっています。
松岡さん
「高校1年の時に出た秋田国体の時に、地元の人の声援がすごく力になって、何かこう選手の時もそうだし、選手引退しても違う形で何か恩返しがしたいと思ってたから、忙しくても忙しくても、東京にいても、気持ちは秋田にあるっていうことだけは常に伝えるようにはしていて。」
松岡さんの今後の目標はヘッドコーチとしてオリンピックで活躍する選手を支えること。そしてもう1つは秋田のフェンシングをさらに盛り上げることです。
松岡さん
「東北6県を対象に、フェンシングの合宿とか、なんかちっちゃい大会でも、普及も兼ねて東北に恩返しできたらなっていう話は常々してて、そういうのができたらきっと秋田の子たちにも還元できるのかなって思って、今はそれが1番したいこと」
世界に目を向けながらも気持ちはいつも秋田に。松岡さんの熱い思いと技術は次の世代を担う選手に受け継がれていきます。