【AFP=時事】今年の米大リーグ(MLB)では大谷翔平が歴史的な活躍を見せたが、今をさかのぼること60年前、日本人初の大リーガーとして礎を築いた人物がいる。サンフランシスコ・ジャイアンツでプレーした村上雅則氏(80)だ。
ロサンゼルス・ドジャースの大谷は今季、史上初のシーズン50本塁打、50盗塁を達成する新たな金字塔を打ち立てた。大選手でありながらまだ成長中の姿は、日本だけでなく米国でも絶大な人気を集めるが、村上氏が大リーグに挑戦していなければ大谷の活躍もなかったかもしれない。
横浜市で開かれた現役時代の偉業をたたえる展示会の会場で、AFPのインタビューに応じた村上氏は、大谷について目を輝かせながら、「見本」のような野球選手で、申し分のない日本の顔だと称賛。「日米の友好的な関係にとって、大谷は普通の人の何百倍、何千倍の価値がある人間。米国人だけでなく、全世界の人に愛されていると思う。愛していないのは相手の打者だけ」と語った。
村上氏は1964年、「野球留学生」としてプロ野球の南海ホークスからジャイアンツ傘下のマイナーチームに加入。そこから当初は数か月の予定だった滞在が延び、9月に満員のシェイ・スタジアムで行われたニューヨーク・メッツ戦でメジャーデビューを飾ることになった。
当時の状況は、今とはまったく違った。米国へ降り立った時点では英語が分からず、どこへ行くにも辞書が手放せなかったという村上氏は「今の時代は米国のことをよく分かって行っている。私の頃は『米国なんてどこにあるの?』というような遠いところだった。全然分からないところにいきなり入っていった」と振り返る。
さらに、当時はまだ第二次世界大戦の終戦から20年ほどで、人々の中で戦争の記憶も新しく、相手チームのファンからの暴言にも耐えなければならなかった。
それでも日系米国人からは英雄扱いされた。今も覚えているのは、球審と言い争った後にロージンバッグを放り投げた試合のことで、試合後に年配の日系米国人の男性がやって来て握手を求められたという。
男性からは「サンフランシスコにいたときに戦争が始まって、米国に財産を取られて、日本人だけの施設へ入れられた。戦争が終わってからも、米国人に対して怖くて『ノー』と言えなかった。だけど戦争が終わってから20年、お前がベースボールでやってくれてよかった」と言われたそうだ。
村上氏はその後もジャイアンツに残りたかったが、保有権をめぐって南海とジャイアンツが揉め、1966年に日本へ戻った。この対立をきっかけにつくられた新ルールが原因で、野茂英雄が1995年にルールの抜け穴を突いてドジャースへ加入するまで、日本人選手のメジャー挑戦はしばらくなかったが、野茂の活躍を受けてその後は多くの選手が海を渡るようになった。
村上氏は、自身の貢献が日本では忘れられがちだと語り、「みんな野茂がファースト(第一人者)だと思っている。日本の一番悪い傾向は、(野球の)歴史のことをあまり伝えない。米国はそういう歴史を伝える。だから野茂がファーストって言っているけど、(私は)野茂が生まれる前に行っていた」と誇った。
もっとも、村上氏はそのことを大きく悔しがる様子もなく、今では大谷の活躍に魅了されている。
村上氏は、大谷が成功できた要因は野球の能力以外の部分にもあると考えており、「大谷は通訳はいるけど、選手とものすごく仲がよく、笑ったり、冗談を言ったりできる。何人かの日本人選手はそれができない。ホームランを打ったら、『おお、ホームラン打ったな』だけ。大谷は『中』に入った」と話している。
【翻訳編集】AFPBB News
ロサンゼルス・ドジャースの大谷は今季、史上初のシーズン50本塁打、50盗塁を達成する新たな金字塔を打ち立てた。大選手でありながらまだ成長中の姿は、日本だけでなく米国でも絶大な人気を集めるが、村上氏が大リーグに挑戦していなければ大谷の活躍もなかったかもしれない。
横浜市で開かれた現役時代の偉業をたたえる展示会の会場で、AFPのインタビューに応じた村上氏は、大谷について目を輝かせながら、「見本」のような野球選手で、申し分のない日本の顔だと称賛。「日米の友好的な関係にとって、大谷は普通の人の何百倍、何千倍の価値がある人間。米国人だけでなく、全世界の人に愛されていると思う。愛していないのは相手の打者だけ」と語った。
村上氏は1964年、「野球留学生」としてプロ野球の南海ホークスからジャイアンツ傘下のマイナーチームに加入。そこから当初は数か月の予定だった滞在が延び、9月に満員のシェイ・スタジアムで行われたニューヨーク・メッツ戦でメジャーデビューを飾ることになった。
当時の状況は、今とはまったく違った。米国へ降り立った時点では英語が分からず、どこへ行くにも辞書が手放せなかったという村上氏は「今の時代は米国のことをよく分かって行っている。私の頃は『米国なんてどこにあるの?』というような遠いところだった。全然分からないところにいきなり入っていった」と振り返る。
さらに、当時はまだ第二次世界大戦の終戦から20年ほどで、人々の中で戦争の記憶も新しく、相手チームのファンからの暴言にも耐えなければならなかった。
それでも日系米国人からは英雄扱いされた。今も覚えているのは、球審と言い争った後にロージンバッグを放り投げた試合のことで、試合後に年配の日系米国人の男性がやって来て握手を求められたという。
男性からは「サンフランシスコにいたときに戦争が始まって、米国に財産を取られて、日本人だけの施設へ入れられた。戦争が終わってからも、米国人に対して怖くて『ノー』と言えなかった。だけど戦争が終わってから20年、お前がベースボールでやってくれてよかった」と言われたそうだ。
村上氏はその後もジャイアンツに残りたかったが、保有権をめぐって南海とジャイアンツが揉め、1966年に日本へ戻った。この対立をきっかけにつくられた新ルールが原因で、野茂英雄が1995年にルールの抜け穴を突いてドジャースへ加入するまで、日本人選手のメジャー挑戦はしばらくなかったが、野茂の活躍を受けてその後は多くの選手が海を渡るようになった。
村上氏は、自身の貢献が日本では忘れられがちだと語り、「みんな野茂がファースト(第一人者)だと思っている。日本の一番悪い傾向は、(野球の)歴史のことをあまり伝えない。米国はそういう歴史を伝える。だから野茂がファーストって言っているけど、(私は)野茂が生まれる前に行っていた」と誇った。
もっとも、村上氏はそのことを大きく悔しがる様子もなく、今では大谷の活躍に魅了されている。
村上氏は、大谷が成功できた要因は野球の能力以外の部分にもあると考えており、「大谷は通訳はいるけど、選手とものすごく仲がよく、笑ったり、冗談を言ったりできる。何人かの日本人選手はそれができない。ホームランを打ったら、『おお、ホームラン打ったな』だけ。大谷は『中』に入った」と話している。
【翻訳編集】AFPBB News