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アンニュイな雰囲気と少女のような可憐さ 監督たちの創造性を刺激したアヌーク・エーメのキャリア、対面時の思い出【パリ発コラム】

映画.com 2024年6月30日 12時0分

 6月18日、アヌーク・エーメが92歳で亡くなった。後年は、旧友クロード・ルルーシュの監督作以外、あまり大きな役を演じていなかったものの、そのニュースが新聞各紙の一面を飾るなど、マスコミの報道ぶりからあらためてその存在の大きさを実感させられた。

 彼女についてよく語られるのが、「ミステリアス」「エレガント」「控えめ」といった形容だ。社交的な場にはあまり顔を出さず、業界人とは一定の距離を保ち、気品のなかに静かなオーラを纏っていた。「甘い生活」(1960)と「8 1/2」(1963)で彼女を起用したフェデリコ・フェリーニはかつて、「彼女の顔はとても映画的で、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリヒ、ジョーン・クロフォードと同様の魅力的な官能性がある」と評した。またどんな役を演じても、下品にならず、いわゆる汚れ役をやらずに俳優として評価されたまれなタイプと言えるだろう。

 その代表作といえばまずはクロード・ルルーシュの「男と女」(1966)が浮かぶ。レーサーの男と、最近夫を亡くした女が季節外れの海辺の街、ドーヴィルとパリを行き来しながら逢瀬を重ねる。相手役のジャン=ルイ・トランティニャンとの、互いに戸惑いながらも情熱に押されていく様子が、なんとも観る者の気持ちを掻き立てる。日本でもフランシス・レイ作曲のテーマ曲、「ダバダバダ~」とともに大ヒットした。本作でエーメはゴールデングローブ賞を受賞したほか、アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされ、世界的な人気を得るに至った。またこれを機にルルーシュとは生涯にわたる友情関係を築き、「続・男と女」(1977)、「男と女 人生最良の日々」(2019)のほか、カトリーヌ・ドヌーブと共演した「愛よもう一度」(1976)、「Une pour toutes」(1999)、「Cest amours-là」(2010)と、ときには小さな役柄でも出演。「ルルーシュの作品だけは断ることがない」と言われた。

 映画愛好家に圧倒的な人気を誇るのは、ジャック・ドゥミの「ローラ」(1960)と「モデル・ショップ」(2007)だろう。とくに前者はもともとダンサーになりたかったエーメの軽妙な踊りと色香に目が吸い寄せられる。

 もっとも、ルルーシュ、ドゥミ、フェリーニ以外も、ジェラール・フィリップと共演したジャック・ベッケルの「モンパルナスの灯」(1958)、ジョージ・キューカーの「アレキサンドリア物語」(1969)、シドニー・ルメットの「Le Rendez-vous」(1969)など、国際的な活躍を果たし、マルコ・ベロッキオの「Le Saut dans le vide」(1980)では相手役のミシェル・ピコリと揃って、カンヌ国際映画祭で女優賞と男優賞を受賞した。

 アヌーク・エーメは芸名だが、フランス語でエーメは「愛されている」という意味がある。これを命名したのは、彼女の出演2作目(マルセル・カルネの「La Fleur de l’âge」1947)で脚本に参加した、フランスを代表する詩人のジャック・プレベールで、彼はその理由を「彼女はみんなに愛される存在だったから」と語ったとか。

 13歳のときにパリの通りでたまたますれ違ったアンリ・カレフ監督にスカウトされ、しぶしぶ俳優の仕事を始めた彼女だが、その人目を引く美しさ、アンニュイな雰囲気と少女のような可憐さが同居した魅力で多くの監督たちの創造性を刺激してきた。

 一方、私生活では4度の結婚と離婚を経験した恋多き女だった。3度目の結婚相手は「男と女」の作詞家ピエール・バルーで、撮影2日目に意気投合して、13日間の撮影が終了する前に恋人同士になっていたという。また4度目の結婚相手であるイギリスの俳優アルバート・フィニーのために、1970年に結婚したのちは7年後に離婚するまでロンドンに移住。ほぼ俳優業から離れていた。

 じつはかなり前、わたしがパリに移住したばかりの頃、彼女に取材をする機会があったのだが、指定されたカフェで彼女に会った時は、緊張のあまりほとんど記憶がない。が、あの特徴的な喋り方やときどき髪をかき上げる仕草がとてもムーディで、つい見惚れてしまったことだけは覚えている。

 フランス映画のある時代を象徴する存在が、またひとり逝ってしまった。(佐藤久理子)

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