英ウェールズ出身の女性監督プラノ・ベイリー=ボンドの長編デビュー作。映画の“検閲官”を主人公にした珍しいホラーなのだが、まずは物語の時代背景を押さえておく必要がある。1980年代半ばのイギリスでは、ビデオカセットでリリースされる映画に対する規制がなく、グロテスクな人体損壊やレイプシーンを売り物にしたエクスプロイテーション映画が大量に流通した。保守的な人々やメディアは“ビデオ・ナスティ(有害な映画)”と呼ばれたそれらの低俗な作品群が、青少年に悪影響を及ぼすと主張し、犯罪率の増加と結びつけて危険視した。そのヒステリックな論争は、マーガレット・サッチャー政権下で噴出していたさまざまな社会問題のスケープゴートでもあったが、1985年に成立した新たな規制法によって、英国映画分類委員会がビデオパッケージ映画の検閲を行うことになった。
主人公の孤独な女性イーニッドはその機関の検閲官であり、暴力的な映画を厳しく取り締まることが道徳的に歪んだ社会の浄化に寄与すると信じている。ところが彼女は「血塗られた教会」という映画の検閲中に思わぬ衝撃を受ける。イーニッドは幼い頃、森の中で妹のニーナが失踪したトラウマを抱えており、「血塗られた教会」にはその記憶を生々しく呼び覚ます描写が盛り込まれていたのだ。
かくしてイーニッドは「血塗られた教会」の主演女優がニーナだと確信し、独自の調査に乗り出すのだが、ベイリー=ボンド監督はリアルとフィクションの狭間で混乱していく主人公の異常心理を探求した。35ミリフィルムによるシネマスコープと劇中劇パートの4:3のふたつの画面サイズを使い分け、おどろおどろしい赤と青の原色を強調した照明をフィーチャー。さらにイーニッドが勤める検閲局のオフィス、地下鉄車内や地下道などのシーンに憂鬱なムードを漂わせ、そこはかとなくシュールな幻想性を創出した。撮影、美術スタッフの優れた仕事に支えられたその特異なビジュアルは、当時のイギリス社会の空気を再現するにとどまらず、ジャッロ映画やスラッシャー映画、デヴィッド・リンチの悪夢映画へのリスペクトにもなっている。
また本作は、決して暴力ホラーの有害性を説く作品ではない。終盤、イーニッドの前に現れる「血塗られた教会」の監督は「人々は私が恐怖を作り出していると思っているが、恐怖はすでに存在しているのだ。我々の中に」と言い放つのだが、この深遠なセリフが本作の主題を示している。真なる恐怖の根源は人の心の中にある、ホラー映画はそれを表出させる触媒にすぎないのだと。ゆえに、トラウマにあえぐイーニッドは為す術もなくホラーの虚構にのみ込まれ、救いようのない自己破滅的な運命をたどるはめになる。私たち観客の現実認識さえも狂わせる、迷宮的なメタフィクション映画の快作である。
(高橋諭治)