ニューヨークで注目されている映画とは? 現地在住のライター・細木信宏が、スタッフやキャストのインタビュー、イベント取材を通じて、日本未公開作品や良質な独立系映画を紹介していきます。
米テレビ界の“アカデミー賞”といわれる第76回エミー賞のドラマシリーズ部門にて22部門・最多25ノミネートを記録している「SHOGUN 将軍」は、批評家だけでなく、一般層からも多くの支持を得ている。この成功の立役者として、出演だけでなく、プロデューサーを兼ねた真田広之の活躍は世間に認知されていることだろう。
だが、もうひとり、忘れてはならない人物がいる。
長年、ハリウッドと日本の文化の架け橋を担ってきたプロデューサー・宮川絵里子だ。彼女の手腕が、本作の評価にかなりの影響を及ぼしている。まずは、宮川がどのような道のりを経て、「SHOGUN 将軍」に辿り着いたのかを紹介していこう。
18歳の時に日本を離れ、アメリカへの留学を決意。その動機を尋ねてみると「きっかけは、国際的な人物になりたかったんだと思います」とのこと。
「私の憧れは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を運営された緒方貞子さん(日本人初の国連難民高等弁務官)でした。ボスニアの戦場で防弾チョッキを着た彼女の姿は、私の脳裏に忘れがたい印象を残していました。当時、私の周囲ではアメリカの大学に進学する人は誰もいませんでしたが、緒方さんがワシントンD.C.のジョージタウン大学に進学していたことを知りました。そこで私も出願をし、入学したんです。つまり緒方さんが“きっかけ”でした」
ジョージタウン大学を卒業した宮川は、どんな職業に就くか迷っていた。その時、ある出来事が運命を変える。それが、クエンティン・タランティーノ監督作「キル・ビル」に、翻訳家として参加するということだった。
「(作品への参加は)偶然というか、運が良かったのだと思います。ジョージタウン大学での専攻は、文化と政治と呼ばれる国際関連で、その中でも私は東アジア研究を副専攻としていたんです。中国にずっと興味を持っていて、中国語も勉強していました。大学2年生の時、中国と台湾に留学したこともありました。北京には駐在員の友人もいたくらいです。ただ、ジョージタウン大学を卒業した後、私は自分の人生をどうするべきかわかりませんでした。そんな時、クエンティン・タランティーノが北京で映画を撮るというメールを受け取ったんです。撮影は北京で行われるが、ストーリーは日本の設定――日本語の英語通訳が見つからなかったんです」
驚きのメールを受けとった宮川は、すぐに決断する。
「私は片道切符を取得して飛行機に乗り込み、中国に行きました。そこで私は雇われたんです。とても幸運でした。通訳という仕事は、経験や知識はなくても、いろいろなことに触れることができるので、とても勉強になるんです。当時の私は、俳優と美術監督の通訳をしていました。美術部はすべて日本人でしたし、彼らとは非常に密接に仕事をすることができました。 それまで私は映画のセットで働いたことはありませんでした。初めての経験でもあったのですが、これほど深く、幅広く、映画に触れることができて本当に幸運だったと思います」
タランティーノ監督との仕事はどうだったのだろう。
「いきなり“トップとの仕事”でしたが、とても楽しかったです。当時、彼はすでに監督として大スターで、『パルプ・フィクション』は世界的な現象を巻き起こしていました。彼は『キル・ビル』を撮れることに、とても興奮していましたね。当時の中国は少し開放され始めていて、とてもユニークな時代。外国人はそれほど多くなく、Beijing Film Studio(北京電影制片廠)で撮影された最初の外国映画だったと思います。Beijing Film Studioは、共産党のプロパガンダ映画を製作するために作られたものでしたが、我々にとってそこにいることは特別な経験でした。そしてクエンティンは、そんなユニークな場所で、あの作品を撮れることをとても喜んでいました。それが、我々スタッフにも伝染したんだと思います。まるでサマーキャンプのような気分でした(笑)」
「キル・ビル」以降は、マーティン・スコセッシ監督作「沈黙 サイレンス」で共同プロデューサーを務めている。それまで言語や文化を伝えるための翻訳家、コーディネイターとして関わってきた宮川が、どのようにプロデューサーへの道に辿り着いたのか。
「徐々に出世していったんだと思います。(『キル・ビル』以降の)私はコーディネートとリエゾン(部門や組織間でのコミュニケーションを円滑にする役割)を始めていました。私はもともと、プロデュースをしたいと思っていたので、ひとつの部門だけに自分を限定しないようにしてきました。だから衣装のことも、美術部のことも、経理のことも知っておいたほうがいいと思っていました。だから私はあらゆる機会をチャンスと捉えていて、多くの部門で働きましたし、通訳としても動きました。それが徐々に出世していった要因です。『SHOGUN 将軍』も大きな仕事ではありましたが、日本的な要素を含むアメリカ映画や国際映画以外の作品で行ってきたような“日本側でクリエイティブかつ実務的に必要なことをサポートして提供する”という点については一貫して変わっていません。つまり、その量が多いときはプロデューサーと呼ばれ、少ないときはコンサルタントやリエゾンと呼ばれることがあるんです。だから私は、プロデューサーと呼ばれることにこだわっているわけではないんです。ただ、日本的要素のあるプロジェクトをサポートし“日本がうまく表現されるようにしたい”と常に思っているだけだと思います」
スコセッシ監督作「沈黙 サイレンス」の共同プロデューサーには、どのように着任したのだろうか。
「最後にプロデューサーになったような形です。あの映画は企画から10年以上ずっとやっていたので、最初はリエゾンのような立場でした」
筆者自身も、スコセッシ監督が遠藤周作の原作本の版権を取得してから撮影に入るまでに、かなりの時間がかかったことを記憶している。
「マーティン・スコセッシのように有名で実績のある人でも、映画化はとても難しいものでした。当時私は、依頼されたことは何でもやりましたし、舞台となった長崎に行ってほしいと言われれば、いわばシナハン(=脚本を書くための取材)のようなこともしていました。遠藤周作さんのご家族にも会いましたし、彼の資料館にも行かせて頂きました。脚本家の執筆のヒントになりそうな場所は、片っ端から写真も撮りました。企画が進展すると、私が日本側のキャスティングの進行をすることになりました。そして監督が来たらスカウトの進行もしていって、だんだんと責任が重くなっていったんです。いよいよ撮影!となった時は、当時の肩書きは忘れてしまいましたが、私は日本側のすべての要素を監視していました。スコセッシ監督のプロデューサーが『あぁ、日本のことなら、エリコに何でも聞きなよ』と他の人に紹介してくれたのを覚えています(笑)」
さて、ここからは「SHOGUN 将軍」の話題へと入っていこう。同作は、1980年にアメリカで実写ドラマ化され、驚異的な視聴率を記録したジェイムズ・クラベルのベストセラー小説「SHOGUN」を、新たに映像化した作品。関ヶ原の戦い前夜の日本を舞台に、徳川家康や石田三成ら歴史上の人物にインスパイアされた、将軍の座を懸けた陰謀と策略が渦巻く物語を紡ぎ出す。窮地に立たされた戦国一の武将・虎永(真田)、その家臣となった英国人航海士・按針(コズモ・ジャービス)、ふたりの運命の鍵を握る謎多きキリシタン・鞠子(アンナ・サワイ)が繰り広げる歴史の裏側の、壮大な“謀り事”を描く。
宮川は、ジェイムズ・クラベルの原作を英語だけでなく、日本語版でも読んだそう。「SHOGUN 将軍」の脚本は英語になるが、キャストの大半は日本人だ。つまり、英語が翻訳されていない部分を埋めなければならない。そこを意識して、日本語と英語の両方で原作を読んだのだろうか。
「もちろんです。原作は英語で書かれていますので、それを読むことは絶対に必要でした。そして、80年代に出た翻訳本。これが翻訳チームにとって大きな参考になっています。翻訳者の宮川一郎さん(ジェームズ・クラベルの原作本を監修した人物)は、漢字や多くの表現について独創的な決断をいきました。我々は、合理的に、可能な限りそれを尊重しなければならないと思いました。それでもそれは、原作と80年代に作られたドラマ版を、本当の意味で把握するための出発点にすぎませんでした」。
原作を翻訳して脚本化する――では、80年代のドラマ版との違いは?
「今作は80年代ドラマ版のリメイクと一部で銘打たれていますが、そうではありません。リメイクというよりは、小説の新たな解釈です。ですから、80年代のバージョンとはかなり違うと思っています。80年代の作品は、当時の年代の制作背景を物語っています。80年代としては画期的で、非常に成功したシリーズでした。そして今作が“今の時代”に特化し、オリジナルシリーズと同様の成功を遂げることを願っています」
時代設定は、1600年代。当時の“古い日本語”を翻訳しつつ、日本文化の作法や儀式について、どのような準備を行ったのだろう。
「まず、本作は会話がとても魅力的です。私にもすんなりとは理解できない。誰も正確にはわからないと思いますよ? 言葉はとても進化していますから。そこで他の時代劇や大河ドラマから学びました。と同時に、日本の若い世代の観客に時代劇を楽しんでもらいたいという願いもありました。特に真田さんとは、我々のシリーズの言語をどうすべきか、常に話し合っていました。真田さんは知識と経験がとても豊富です。翻訳した時は、京都にいる森脇京子さんが台詞を推敲してくれました。彼女は脚本家で、時代劇のような日本語になるようにしてくれました。シーンでは、所作(日本の伝統的な立ち居振る舞いや作法)の動き、その他のディテールを追求していきました。すべてがシリーズのために特別に考えられたものです。日本から3人の所作指導者を招きましたが、彼らは皆さん時代劇の経験が豊富な方々。全員が俳優でもありました。そんな彼らが、役者や背景のエキストラに、歩き方、お辞儀の仕方、障子の閉め方などをトレーニングし続けてくれたんです。高位の人たちはどのような身のこなしをするのか。使用人はどのような身のこなしをするのか。村人のお辞儀についてなども。各シーンのためにあらゆることが特別に吟味され、決定されていったんです」
アクションシーンやそれらのシークエンスに取り組むなか、台詞の一部が現場で変更されたと伝え聞いている。真田さんとは日頃からどの程度、密接に連絡を取り合っていたのだろうか。
「真田さんとは、密接に連絡をとっていました。真田さんはどの部門にもしっかり関わっていました。主演もやられていたので、どこに他の部門にも関わっている時間があるだろうと思うほど。チェックはさまざまな段階で行われ、台本が出来上がると、私たちは台本を渡され、真田さんがメモを取っていました。私の仕事は、英語のニュアンスを正確に日本語の台詞に反映させること。ただ、いつもそれができるわけではありません。とにかく真田さんは、その段階での原稿のチェックはもちろん、撮影中はほとんどの場合、テントにいるプロデューサーのジャスティンの隣に座って、一緒にモニターを見ていました。最終的な変更に関しては、ジャスティンがモニターをみたり、あるシーンのラフカットを見て、違うアイデアを浮かび、彼が『直前だけど、ここを変更できないかな?』と言った時には、我々(=真田&宮川)はすぐに最適な翻訳を見つけ出していました」
「そこから、俳優とコミュニケーションをとっていきます。アメリカの俳優がそうであるように、俳優から(脚本変更の)要望が出ることもありました。自分のキャラクターと合わないことがあったり、演技をしているうちに、そのシーンに合わないこともあるからです。ですから、常に調整し続けていました。真田さんは、ポストプロダクションに至るまで、ずっと関わってくれていました。ADRセッション(海外ではアフレコの意味)では、Zoomを使って日本の俳優たち全員と一緒に参加していました。そして、台詞や言葉の調整をいつもそばで手伝ってくれていました。例えば、地震が起きて、遠くにいる兵士たちが 『ああ、だめだ、気をつけろ』と言っている瞬間を録音したんですが、そのような言葉も、真田さんが本物に聞こえるようにサポートしてくれていました」
プロデューサーがポストプロダクションの段階にも、これほど関わってくるのは珍しい。では、視覚効果チームの間では、どのような対話がなされたのか。
「視覚効果に関しては、あまり真田さんとは会話はしませんでしたが、視覚効果のスーパーバイザー、マイケル・クリエットは、とても実践的なアプローチしてくれました。彼は京都在住の歴史学者で、歴史アドバイザーのフレデリック・クラインズと密に協力しあっていました。フレデリックは私よりも日本人らしい男性で、彼は歴史に詳しく最高だったんです。そんなフレデリックは、マイケルに巻物や絵画、参考文献などの資料をすべて渡していました。そこから、マイケルはそれらの資料を彼の大きなコンピュータに入力。たまに私たちが何かがおかしいと気づくと、フレデリックやマイケルに指摘していました」
戸田鞠子役のアンナ・サワイのキャスティングについても尋ねてみた。
「アンナは本当に素晴らしかったです。私たちはとても幸運だったと思っています。日本にも素晴らしい女優さんはたくさんいますし、我々もたくさんの女優さんを見てきましたが、今回の役は英語と日本語の能力が非常に高いことが要求される役でした。アンナは流暢に日本語と英語を話せましたし、それだけではなく、素晴らしい演技の才能と直感を持っていました。彼女のインタビューを読んだかどうかはわかりませんが、オーディションで最初にやったシーンのひとつが、三浦按針と一緒に外の温泉に入るシーンでした。彼女は裸でお風呂に入っていると脚本に書かれていたと思いますが、彼女は『ああ、アメリカのシリーズはこれを期待しているのかもしれない』と思って、ある方法で演じたそうです。プロデューサーのジャスティンと最初の2話のディレクターのジョナサン(・ヴァン・テュルケン)はそこでは反応しませんでしたが、その後、メモを持って、彼女のところに戻り、ジャスティンがそのシーンの意図を説明してくれていました。そこで彼女は驚異的な演技を披露して、それによって配役が決まったんだと思います」
「彼女には素晴らしい指揮能力と直感があると思いました。それだけでなく、彼女はこれまで一緒に仕事をしたなかでも、最も勤勉な女優さんのひとりだと思います。今作では馬に乗り、スタントをこなし、戸田鞠子役として翻訳しなければならないシーンはとても複雑。演技をしながらアクセントもつけなければなりませんでした。彼女は現場で多くのことをこなさなければなりませんでしたが、決して不満を言わず、いつも周りに親切でした。彼女と一緒に仕事ができたことは本当に素晴らしかったですし、シリーズを通して彼女が評価されるのを見てとても嬉しく思っています」。
本作は、全編をカナダのバンクーバーで撮影している。ロケハンの話題についても話をふってみた。
「私もバンクーバーでのロケハンに参加したかったです。ロケハンは、地元のチームによって行われたのですが、映画『沈黙 サイレンス』でもバンクーバーが一時は最有力候補となったくらい。それほど綺麗なところでした。バンクーバーでの撮影は初めてだったのですが、撮影現場として理にかなっていました。バンクーバーのダウンタウンからは、30分~1時間圏内に素晴らしいロケ地があるんです。おそらく東京だと、車で30分とか1時間走ってもまだ都内だと思います。バンクーバーには、多様で豊かな風景と土地がありました。それと同時に、バンクーバーの素晴らしいスタッフにも感銘を受けました。日本にはまだない良さがあったんです」
撮影現場には日本人シェフを呼び、日本食を提供したそうだ。
「シェフは、モエ(Moet Nozaki Lee)さんです。食事はとても重要でした。撮影は雨が降ったり、寒かったり、長かったり、とてもハードだったので、モエさんが毎日日本のお弁当を作ってくれていました。当初は、日本から来たキャストやスタッフのためだけのものでしたが、徐々にみんなが『何それ?』という感じで、どんどん自分も欲しいと願い出る人が増えていきました(笑)。本当に美味しかったんです。(アメリカで出されるような)典型的な照り焼きチキンとは異なっていて、明太子パスタ、筑前煮等々、日本の家庭料理みたいでした。このような食事においての気遣いの違いが、どれほど大きな違いを生むか……私は侮れないと思っています」
「SHOGUN 将軍」は、現在第2&3シーズンの製作が決定している。どのような展望を持っているのだろう。
「脚本家たちは懸命に取り組んでいて、脚本を書き出してからもう1カ月以上やっていると思います。私たちはジェイムズ・クラベルの原作本の内容を1シーズンで使い切ってしまっています。シーズン2があるとは知りませんでした。江戸時代に入る直前の歴史上の人物は魅力的でとても個性豊かです。同シリーズはフィクションではありますが、実際の歴史から多くのインスピレーションを得ています」
第2シーズンもほぼ同じキャストが出演することになるのだろうか。勿論亡くなったキャラクター以外は――。
「そうですね。シーズン2があるとわかっていたら……素晴らしい人たちを殺しすぎてしまったかも(笑)。新シリーズでは、新キャラクターが増えることを、とても楽しみにしています。“戻ってくる”キャラクターも多いと思います」
最後に、エミー賞への期待について聞いてみた。
「本当にすごいです。ノミネートされること自体がすごいことだと思っています。これ以上は望めない出来事です、エミー賞に行けるなんて!!」