作家でAV監督の二村ヒトシさんが、恋愛、セックスを描く映画を読み解くコラムです。今回はロシアの天才作曲家チャイコフスキーと彼を盲目的に愛した妻アントニーナの残酷な愛の行方をつづった伝記映画「チャイコフスキーの妻」(公開中)と、フランス人画家ピエール・ボナールとその妻マルトの知られざる半生を描いた「画家ボナール ピエールとマルト」(9月20日公開)を中心に、それぞれの結婚生活の困難の理由を二村さんが考察します。
※今回のコラムは本作のネタバレとなる記述があります。
▼開けないようにしていた蓋が外れてしまうかもしれない映画
若い男女の恋人たちが二人で映画でも観ようかということになったとき、たとえば有村架純と菅田将暉が出てるし若者向けの恋愛映画っぽい感じだからという理由でストーリーをよく知らずに「花束みたいな恋をした」をチョイスして鑑賞後に気まずい感じになるという現象が起こりえますね。
二人で映画を観て気まずくなるということは、つまり「映画の中の二人はああいうことだったけれども、さて、我々二人はどうか?」という、その映画を観なければ考えないで済んだ、もしかしたら今後ずっと蓋をしておけたかもしれなかったことの蓋が取れてしまうということでしょう。しかし気まずい青春恋愛映画を若い恋人たちが観て気まずい感じになったなら、さっさと別れるとか映画を参考にして今後のために話しあうとか、いろいろやりようはあります。いくらでも人生とりかえしはつくからです。
熟年夫婦でおしゃれなヨーロッパの映画でも観ようとおしゃれな映画館に出かけて、そこで上映してたのが「チャイコフスキーの妻」だったり「画家ボナール ピエールとマルト」だったりしたら大変なことになります。これは二本とも、とりかえしがつかないことになってしまった男女の長い時間を描いた映画だからです。こんな映画を観たら、もしかしたら長い長いあいだ開けないようにしていた蓋が、いまさら開いてしまうかもしれません。
▼売れている画家とも売れていない画家ともつきあうのは大変
画家の映画といえば、結婚生活は後半からだけど北野武監督「アキレスと亀」(2008)という傑作もありました。たけし映画は笑える暴力殺人映画ばかりが話題になりますが、こういう笑えない喜劇もすばらしいです(最新作「首」以外たけし映画って諸般の大人の事情で配信されてないんですよね。DVDでレンタルしてください)。
「画家ボナール ピエールとマルト」が売れてる画家とつきあうのは大変だという話なら、「アキレスと亀」は売れない画家の妻も大変だという話です。それは、芸術家ではない男を夫にする話として読み変えることもできます。その場合は「画家ボナール」は一見さえない外見なのに上場企業に勤めていて、仕事はとてもできるが仕事のつきあいと称して実は浮気もしてるモテる男(なかなか籍を入れてくれないし子どもも作らない)とずっとつきあってる女は大変だという話になりますし、「アキレスと亀」は自分で小さな商売をしているが景気が悪いから働けば働くほど赤字になって倒産寸前なのに仕事が好きすぎて、その仕事以外に何もできないしやることもない夫(しかも仕事を妻に無給で手伝わせる)をもった妻は大変だという話になります。どっちがマシですかね。どっちもいやですよね。
しかしどちらの映画でも、なんで若いころの妻がいずれそんなことになる夫を好きになったのか(つまり、出会ったころの夫が変な人ではあったけど妻にとって魅力ある男だったということ)がちゃんとわかるんです。困ったね。
「画家ボナール」では非常に恐ろしい、とりかえしがつかないことが起きるのですが、「アキレスと亀」でももっと(と比べるべきものでもないのですが)とりかえしがつかない、ある夫婦にとっては究極的に起きてほしくないことが起きます。しかしそれでも「アキレスと亀」は、まだギリとりかえしはつくっぽい終わりかたをします。それは妻も夫もどちらも映画の中で死なないから、そしてこの夫婦が実在してない架空の人物だからというのもあるでしょう。あるいは、この映画を撮ったとき監督は自分の理想、もしくは「そうするより仕方ない」を語ったのかもしれません。
「画家ボナール」では妻が先に死にます。もともと体が弱かった妻が、それでもまあまあ長生きできて(夫と一緒に暮らしたおかげで? いや、それはわかりません)老いて死ぬところで映画は終わります。「チャイコフスキーの妻」ほど激痛が前面にでた映画ではありませんが、長生きはできたけれど最後まで彼と暮らした彼女の人生は幸せだったのかという答えのない問いがそこに残ります。
死んだ人は最後の言葉のあとにもう何も語らないですし(最後の言葉を解釈するのは生き残った側や、映画の観客です)そもそも彼女の最後の美しい言葉も映画のフィクションかもしれません。そして実在した人の人生を映画監督が結論づけることも、実在の他人の人生を使って自分の理想を語ることもできません(まあ、やろうと思う創作者もいるのでしょうが)。
▼愛してくれない人に求婚し、結婚した妻のさみしさを描く「チャイコフスキーの妻」
「チャイコフスキーの妻」は夫が妻を残して死んでから話が始まって、生前の地獄の夫婦生活が回想されていきます。回想しているのが生き残った妻なのか、もう死んでいる夫なのかよくわかりません。なにしろ死んだ人こそが雄弁だというところから始まる映画です。
どちらも100年以上昔に(ピエール・ボナールは1867生~1947没、チャイコフスキーは1840生~1893没)実在した著名な夫とその妻を描いているわけですが、もちろん映画の中では死ななかった側も今ではもう生きていません。
「チャイコフスキーの妻」の妻は、愛してくれない人に求婚して、その「妻に無関心な人」を夫にしてしまいました。19世紀後半の作曲家ピョートル・チャイコフスキーが女性と結婚したけどゲイだったというのはクラシック通の人には知られた話みたいですが、彼はロシアの芸術の英雄なので、それは今のロシアではあんまり大きい声では言ってはいけないことなのだそうです。二重の意味で変な話ですね。
この映画の監督キリル・セレブレンニコフは演劇を演出したり映画を監督したりするたびにロシア当局から怒られたり自宅から一歩も出るなと命令されて、それでも創作を続ける気合の入った人ですから(現在は祖国を脱出しドイツを拠点に活動しているそうです)もちろんモロにそのことを描きます。描きますが、そのこと、つまり夫がゲイであることは、少なくとも映画の中で妻がああいうふるまいをすることの理由ではないようにぼくは思いました。
「チャイコフスキーの妻」の妻は、夫になる人がまだそんなに有名になる前から彼のファンでした。ファンではあったのですが、彼が一体どんな人なのか彼女はよく知りません。知らないうちから求婚します。では彼女は、彼の楽曲の熱烈なファンだったのでしょうか。この人は将来、かならず世界的な作曲家になる、だから私は妻となって彼の芸術を支えようと決心して一方的に求婚したのでしょうか。(そうだったのだとしても一方的に求婚したり、それを受けるなんて恐ろしいことですが)どうもそうではなかったんじゃないでしょうか。
映画で描かれているのは妻のさみしさです。彼女が夫に求婚したのは、さみしかったからなんだろうとぼくは思います。夫が仕事で忙しかったから、夫がゲイで自分よりも男たちと仲がよかったから、彼女の夫への憎悪はつのっていったのではあろうとも思いますが、彼女がもともと(結婚前から)さみしい人だった要因になっていそうなエピソードも映画の中で描かれます。彼女は無意識に自分のさみしさを激化させることがわかっている男を選んだのではないでしょうか。
▼ジョン・カサヴェテスの傑作「こわれゆく女」のさみしがりやの妻を思い出す
チャイコフスキーは妻に憎悪されながら名曲「白鳥の湖」を書きます。その100年ぐらい後にアメリカで一本の夫婦の映画が撮られます。ジョン・カサヴェテス監督の傑作「こわれゆく女」(1974)です。この映画の夫婦の妻(ジーナ・ローランズ)は家の裏庭で、ラジカセから流れる「白鳥の湖」で踊ります。テンション高く踊り狂うのではなく、むしろ周囲をめちゃめちゃ気にしながら(しかし彼女の気配りはとんちんかんで他人にはまったく理解されないのですが)彼女はどうしても踊らないではいられない。この映画もまた、さみしがりやの妻の物語です。このシーンで妻が踊る曲としてこの曲がなぜ選ばれたのかわかりませんが、カサヴェテス監督もしくはジーナ・ローランズのことですから(その二人以外の誰か関係者のアイデアであった可能性もありますが)もしかしたらチャイコフスキー夫婦の逸話が念頭にあったのかもしれないなとふと思いました。考えすぎかな。
ただ「こわれゆく女」の妻は「チャイコフスキーの妻」の妻とちがって、夫のことを憎んでいません。それは「こわれゆく女」の夫(ピーター・フォーク。余談ですが彼はカサヴェテス監督の親友で、ほとんど自主映画みたいな制作体制だった「こわれゆく女」に、テレビドラマ「刑事コロンボ」の自らのギャラを相当つぎ込んでカサヴェテスを助けたんだそうです)が、不器用ながらも妻をケアしまくったからでしょう。さみしい妻をケアしない夫は妻から憎まれる。
「画家ボナール」の妻は、「こわれゆく女」や「チャイコフスキーの妻」の妻のような、さみしがりやではありませんでした。ですから彼女は「チャイコフスキーの妻」の妻のようには夫を憎んだように描かれませんが、それでも夫からうけた扱いで、さみしさを感じます。感じないはずはありません。ところが彼女は自分のさみしさと対抗するために、やることを見つけてしまいます。彼女はそれを見つけられたというそのことが、マルタン・プロヴォ監督がこの映画で語りたかったことのひとつなんだろうなとぼくは思ったのですが、時代背景もあって夫ほどの名声はえられなかったわけですし、名声なんかとは関係なく、それによって彼女が幸せになれたのかどうかは映画では描かれない。そこは描かない、描けないことが、完全なフィクションではなく現実の人間の存在をもとにした映画であることの繊細さのようにも感じます。
▼閉じられていた蓋も開くんだったら開けてしまったほうがいいのかもしれない
と、ここまで書いてみて思ったんですが、とりかえしがつかないことって何なんでしょうね。そんなことって映画ではない「現実」に、あるんでしょうか。ある映画を二人で観てしまったことが「とりかえしのつかないこと」なわけはないと思うし(観ないほうがよかった映画なんてないような気がするんですが、どうでしょうか?)、長い長いあいだ閉じられていた蓋も開くんだったら開けてしまったほうがいいのかもしれません。とりかえしがつこうがつくまいが、年とった夫婦が「とりかえしがつかない夫婦の人生を描いた映画」を観て他山の石となすことはむしろ推奨されるべきなのかもしれない。どっちにせよ時間はあまり残されていないわけですから。
というわけで老ご夫婦の皆さん、お二人で「チャイコフスキーの妻」と「画家ボナール」を観に映画館に出かけてはいかがでしょうか。もちろん若い皆さんも今後の長い人生と愛と、もしかしたら結婚のご参考に、ぜひどうぞ。
【付記】今、話題になっている山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」も、若い女性の物語ですが、「こわれゆく女」や「チャイコフスキーの妻」と同じ問題を描いていると思います。こちらも(傑作でした!)お若いかたは、ぜひどうぞ。あまり二人で話しあう参考にはならない映画かもしれませんけど。