賞レースのはじまりのひとつとなるトロント国際映画祭に今年も足を運んだ。わずか5日間の滞在では270本を超える出品作を網羅することなどは不可能だ。それでも、目にした作品群からは例年にも増して意欲的な姿勢が感じられた。凡庸さを避け、新たな挑戦に果敢に挑む作品が多かったのだ。野球に例えるなら、確実に出塁を狙うよりも、三振覚悟でフルスイングに賭ける。そんな気概に満ちた作品たちが、今年のトロント国際映画祭を彩っていたのである。
その最たる例が「ベター・マン(原題)」(「グレイテスト・ショーマン」のマイケル・グレイシー監督)だろう。英国ポップスター、ロビー・ウィリアムズの伝記映画だ。クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒット以降、ミュージシャンの伝記映画は人気ジャンルとなっているが、本作はその中でもひときわ異彩を放つ。なぜなら、主人公ロビー・ウィリアムズの顔がCGでチンパンジーに置き換えられているからだ。少年時代から青年期、ボーイバンド「テイク・ザット」時代を経て、ソロ活動に至るまで、彼の顔だけが一貫してチンパンジーなのだ。興味深いことに、周囲の人々はこの事実に何の違和感も示さない。
この奇抜な演出は、ロビーの強烈な自意識や自己破壊的な本質を表現しているのだろう。似た風貌の俳優を起用するよりも遥かに印象的だ。WETAが手掛けただけあって、チンパンジーの表情は驚くほど豊かで、「猿の惑星」のシーザーを彷彿とさせる。
また、米アーティストのファレル・ウィリアムスを題材にしたドキュメンタリー映画「ピース・バイ・ピース(原題)」もある。こちらも普通にやっているのではなくて、レゴムービー風のアニメーションとして作られている。ありきたりな手法を避け、視覚的・物語構成的に型破りなアプローチを取ることで、観客の心を掴もうとしている。
この傾向は音楽映画に限らない。エイミー・アダムス主演の「ナイトビッチ(原題)」は、育児に疲弊した元アーティストが犬になるダークコメディだ。同名小説の映画化で、そのコンセプト自体が非常に興味深い。
ジェイソン・ライトマン監督の「サタデーナイト(原題)」も野心作だ。老舗生放送バラエティ「サタデーナイト・ライブ」の誕生を描くが、アプローチが斬新だ。クリエイター、ローン・マイケルズの長年の歩みを描くのではなく、初回放送前90分を「24」風のリアルタイム進行で描く。未確定の構成、各方面からのプレッシャー、トラブルの連続。その中でチームが形成され、マイケルズ(「フェイブルマンズ」でスピルバーグの青年期を演じたガブリエル・ラベルが好演)が成長していく姿を捉える。まさに意欲作と呼ぶにふさわしい。
これらの作品を挙げてみたが、2016年に観客賞を受賞した「ラ・ラ・ランド」や、2019年の「ジョジョ・ラビット」のように、野心性とクオリティを両立させたものは見あたらなかった。
逆に、まったく新しいことはしていなかったけれど、「アンストッパブル(原題)」は手堅いスポーツ映画だった。生まれつき片足のアンソニー・ローブレズがレスリングの世界に挑む実話を描いた作品で、マイケル・マン監督やキャスリン・ビグロー監督、ベン・アフレック監督の編集者として名を馳せたウィリアム・ゴールデンバーグの監督デビュー作。感動の実話を手堅い編集で描き、会場は大いに盛り上がった。
もうひとつ、ドリームワークス・アニメーションの新作「野生の島のロズ」も、ありったけの笑いとハートフルな物語で観客を熱狂させていた。この傑作については別の機会に紹介したい。
今年のトロント国際映画祭は、斬新な表現への挑戦と伝統的な映画作りの魅力が交錯する場となった。さて、今年もいよいよアカデミー賞レースがはじまった。