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アーミル・カーン、映画製作における信念を明かす「不平等、不公平な構造――それに気付いた以上は語り、表現したい」【「花嫁はどこへ?」インタビュー】

映画.com 2024年10月4日 11時0分

 想定外のトラブルをきっかけに、自らの可能性に気付き、幸福を連鎖させていく2人の花嫁の姿を描いたインド・ヒンディー語映画「花嫁はどこへ?」が10月4日に公開される。トロント国際映画祭でスタンディングオベーションを巻き起こし、世界最大の映画批評サイト「Rotten Tomatoes(ロッテントマト)」では100%フレッシュという驚異の高評価。米アカデミー賞国際長編映画賞のインド代表に選出されるなど言葉や文化の壁を超え賞賛されているユーモラスな感動作だ。

 監督デビュー作「ムンバイ・ダイアリーズ」(2010)ぶりの新作となるキラン・ラオがメガホンを取り、大ヒット作「きっと、うまくいく」(2009)などに主演し俳優としても絶大な人気を誇るアーミル・カーンがプロデューサーとして参加。アーミル・カーンが審査員を務めるコンテストで本作の原案となる脚本を発掘し、キラン・ラオに監督を託したのが本作の出発点だという。

 慣習に従い決められた道を歩んできたが、夫とはぐれたことで生きる術を身につけていくプールを演じたのは、インフルエンサーとしても人気のニターンシー・ゴーエル。そして、とある目標を胸に秘めながら、周囲を勇気づけていくジャヤを映画初主演のプラティバー・ランターが演じる。

 インドの光景や文化を魅力たっぷりに描きながらも、女性の権利と平等を掲げる本作はどのように生まれていったのか。アーミル・カーンに社会問題を提起する作品づくりに至ったきっかけや、インド映画界における女性監督の躍進について語ってもらった。(取材・文/ISO)。

【「花嫁はどこへ?」あらすじ】

2001年のインド。生まれ育ちも性格も異なる2人の花嫁プールとジャヤは結婚式を終え、満員電車に乗って花婿の家に向かっていた。だが2人とも赤いベールで顔を隠していたため、プールの夫ディーパクは間違えてジャヤを自分の村に連れ帰り、プールは見知らぬ駅に置き去りとなってしまう。内気なプールは思いもよらぬ出来事に戸惑いながらも、手を差し伸べてくれる人々との交流の中で自分の可能性に気付き始める。一方、聡明で気丈なジャヤはディーパク一家のもとで何かを企んでいる模様。予期せぬ偶然の果てに2人の花嫁が掴んだ未来とは一体――。

●ユーモアを交えて語ることで、大切なメッセージを伝える

――アーミル・カーンさんが脚本コンペでビプラブ・ゴースワーミーさんの脚本を発掘したことが本作の出発点だと伺いました。この物語のどのような部分に可能性を見出したのでしょうか。

 原案となる脚本を読んだ時にすぐに感情移入し、驚くほど引き込まれました。花嫁が入れ替わって別の場所に辿り着き、夫は別の花嫁を連れて帰ってくる…という不条理で衝撃的な状況を描いた物語に夢中になったんです。そして読み進めるとユーモアも満載で、インド人である我々がどう振る舞うべきかや女性に対する社会や個人の態度など、考えなければならないことをたくさん教えてくれる内容でもありました。

 また登場人物がそれぞれ何かしらと戦う物語でもありますよね。ある女性は母親にしたくもない結婚をさせられ、結婚先でやりたい勉強はさせてもらえそうにない。あらゆるものが彼女を追い詰める逆境の中で、彼女は希望を持ち続け、人生を切り拓こうとする。望む未来を実現させるため彼女が世界と戦う姿には本当に感動させられました。

――本作は家父長制に対しては批判的でありつつも、冒頭に「誰かを傷つける意図はない」というテロップが出たように、男女の対立を煽ったり伝統を一方的に否定したりしない優しさも持ち合わせた作品でしたね。

 私たちは新しい考え方や概念を提示しているため、時に古いやり方・考え方に対し批判的になることがあります。ただおっしゃる通り、この映画は誰かを動揺させたり傷つけることを意図したものではありません。ですから冒頭にそのことを明確にしておきたかったのです。

――ミステリーとコメディを行き来しながら社会問題に切り込む構成からは、カーンさん主演の「きっと、うまくいく」や「PK」(2014)を思い出しました。

 言わんとしていることがよくわかります。「きっと、うまくいく」も、私が演じるランチョーが現在何をしていて、どこに消えたのかを皆で追い求めるミステリーがある物語でしたよね。私が何より「きっと、うまくいく」と「PK」、そして「花嫁はどこへ?」に共通していると感じるのは、それらの映画が非常に深くて大切なことをユーモラスな方法で伝えていることだと思います。ユーモアを交えて語れば、観客の皆さんを楽しませられるし、難しいことも受け入れやすくなります。そういう意味で本作はその2作とよく似ていますね。ユーモアと軽やかさで映画の中で何が起きているか、そして何を伝えようとしているかを理解してもらう、それはとても重要なことだと思います。

――「地上の星たち」(2007)で監督経験もあるカーンさんが気に入った脚本の監督を、14年もの間監督業から離れていたキラン・ラオさんに託した理由を教えてください。

 彼女とはパートナーとして長い年月を一緒に過ごしてきただけでなく、何年にもわたりさまざまな仕事を共にしてきました。彼女の前作「ムンバイ・ダイアリーズ」(2011)はもう10年以上も前の作品ですが、それ以降も彼女はたくさんの物語を書いていたんです。ただ最近はどうも現状に満足できておらず、苦しんでいるということを知っていました。というのも、彼女は私によくそんな話をしてくれて、時には意見を求めてくれていたので。

 そんな中でこの脚本を発見し、監督をするならキランが適任だと感じました。その理由は、彼女はシーンの見せ方や登場人物の扱い方、そして映画自体との向き合い方などあらゆる点にとても誠実な監督だから。

 この物語では「ある花嫁が行方不明になり、また別の花嫁が間違った家に来てしまう」といったとても不条理でドラマチックな出来事が起こります。それをリアリティを持たせるよう誠実に描くことができれば、この物語には力が宿ると考えました。だからこそ本作をキランに託そうと思ったのです。彼女の監督としての誠実さは、この物語が放つメッセージを伝えることに大きく貢献していると思います。

●「不平等や不公平な構造に気付いた以上はそれについて語り、表現したい」

――大ヒットを果たしたカーンさん主演の「ダンガル きっと、つよくなる」(2016)も明確にフェミニズムの視点を感じさせる作品でしたが、その際にはキラン・ラオさんが製作に入っていますね。カーンさんがこのような男女の不平等など社会問題を提起する作品づくりに興味を持ったきっかけはあるのでしょうか?

 私はインド社会の中で、皆が直面しているあらゆる問題や課題を身近に感じながら育ってきました。おそらく子どもの頃から不公平な出来事が起きていることを目の当たりにしてきたことが、私に影響を与えてきたのだと思います。

 例えばインドは深刻な貧困問題を抱えていますが、その結果子どもが複数いる世帯では、すべてとは言わずともほとんどの親が男児を優先します。健康や食事、教育などあらゆる事柄で男児にお金をかけ、一方の女児には「あなたは結婚して夫の家に行くまで家族の世話や家事をしなさい」と役割を押し付ける。生まれた瞬間から性別による不平等が始まっているのです。

 そういった状況を見てきて育った影響もあり、不平等について考えざるを得ないのです。特定の誰かを糾弾したり断罪するつもりはありませんが、一人の人間として不平等や不公平な構造に気付いた以上はそれについて語り、表現したいと思うのです。そしてそれを観た人々が、そこから学び、心に愛を育んでくれることを願っています。

――プールのメンターとなる自立した女性、マンジュのキャラクターが素晴らしいですよね。

 コンペで発掘したビプラブの脚本もとても気に入ったのですが、キランも私も内容に完全には満足しておらず、まだ手を加える必要があると考えました。なので我々は脚本家のスネーハー・デサイに参加してもらったのです。彼女は原案ではあまり焦点の当たらない、マンジュやマノハル警部補などのキャラクターの魅力を引き出して活躍させ、元の脚本で描いていたテーマをより効果的に展開させてくれました。

――マノハル警部補役で出演を検討していたと伺いましたが、最終的にラヴィ・キシャンさんが演じられていましたね。彼の演技は本当に魅力的でしたが、彼に役を振るまでにはどのようなプロセスがあったのでしょうか?

 おっしゃる通り、脚本を読んで俳優としてマノハル警部補のキャラクターに惹かれた私は当初、彼を演じたいと考えていました。実際キランに演技を見てもらうために、スクリーンテスト(配役を決める際に、撮影された映像で判断する選考のこと)も行う段階まで進めていたんです。でも次第にキランも私も、この役を私がやるべきではないと考え始め、最終的に辞退することにしました。

 その結果、ヒンディー語映画界で長年活躍する素晴らしい俳優のラヴィ・キシャンがマノハル警部補を演じることになりました。ラヴィが演じれば、観客はマノハル警部補がどういうキャラクターでどのような役回りか予測できなくなると考えたからです。おそらくこの映画を観た人は彼の変化に驚くことでしょう。

 一方、名の知れたビッグスターと思われている私がマノハル警部補を演じると、観客は「あの役は最後に何かやるに違いない」と期待しますよね。だから観客に物語を予測させず、驚きを感じてもらうために、私はあの役を演じないという選択をしたのです。

●女性監督の活躍が目立つインド映画界の変化を「強く支持する」

――キラン・ラオ監督をはじめ、「ただ空高く舞え」(2020)のスダー・コーングラー監督や、「All We Imagine as Light」(2024)で本年のカンヌ国際映画祭のグランプリを獲得したパヤル・カパディア監督など、インドでは素晴らしい女性監督の活躍が目立ってきていますね。時代の変化を感じますが、この状況をどのようにご覧になられていますか?

 これまでも私自身も複数の女性監督と仕事を共にしてきました。例えば「1947: Earth」(1998)のディーパ・メータ監督、「Talaash」(2012)のリーマ・カグティ監督、そしてもちろん「ムンバイ・ダイアリーズ」で監督と俳優として手を組んだキランなどです。さまざまな女性監督と仕事をしてきましたが、彼女たちは皆映画製作が大好きで、私に新しい視点をもたらしてくれました。

 あなたが挙げた監督以外にも、ヒンディー語映画界では「人生は二度とない」(2011)のゾーヤー・アクタル監督や、「恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム」(2007)のファラー・カーン監督を始め、多くの女性監督が登場しています。この変化は大歓迎ですね。本当に素晴らしいことですし、私はこの変化を強く支持します。

――女性のスタッフも増加傾向にあるのでしょうか?

 35年ほど前、私が俳優を始めた頃は現場に女性はほとんどいませんでした。しかし時代の経過と共に変化が起こり、女性スタッフの数もどんどん増えていきました。今では映画製作におけるさまざまな職種やポジションで活躍されていますし、現場に女性スタッフが大勢いることはもはや一般的ですね。

――トロント国際映画祭でも上映された本作は、世界最大の映画批評サイト「ロッテントマト」でも驚異の100%フレッシュを維持しており、インド国内に留まらず世界中で高い評価を受けています。本作がそれほど広く受け入れられているのはなぜだと思いますか?

 インド映画である本作が世界中で鑑賞され、好意的に受け止められていることを本当に嬉しく思います。私は物語や芸術には国境はないと信じているんです。だから背景の異なるさまざまな人がこの映画と繋がっているというのはとても重要なこと。私は世界中のさまざまな地域や文化圏の映画を観てきました。そして自分が知る文化でなくとも問題なく伝わることを知ったのです。

 たとえば子どもや女性、男性など自分と属性が異なる物語であっても共感できるものはありますし、映画は他の文化に近付くきっかけとなります。この映画が世界中で共感を呼んでいることは嬉しいですし、これから日本でどのように受け止められるのかとても楽しみにしています。

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