内山拓也監督は、「ヴァニタス」(2016)、「佐々木、イン、マイ・マイン」(2020)で、若者たちの苦悩や焦燥をオリジナル脚本による群像劇として描いてきたが、商業長編デビュー作となる「若き見知らぬ者たち」(2024)は、その延長上にある作品だと言える。それは、亡き父の借金返済と難病を患う母親の介護のため昼夜働く兄の彩人(磯村勇斗)と、総合格闘技のタイトルマッチに挑む弟の壮平(福山翔大)が、ささやかな幸せを掴もうともがく姿を描きながら、彼らを取り巻く人物を多角的な視点で描いた群像劇にもなっているからだ。
社会の格差に翻弄されてしまう若者たちの姿は「ヴァニタス」でも描かれていたが、今作ではヤングケアラーの問題として、日常から置き去りにされた人々が社会の中で可視化されにくくなっているという現実を、内山拓也監督は指摘してみせている。ヤングケアラーの多くは、他人に相談できない、或いは、周囲に知られたくない、隠したいとの心理を働かせてしまう。社会に頼れないと自重してしまうからこそ、可視化されないというジレンマがあるのだ。そこに存在しているはずなのに、そんなものは存在していないと見て見ぬふりをする。そうやって、平穏を装ってしまう社会の象徴として登場するもうひとつのモチーフが<拳銃>なのだ。
基本的に日本では、拳銃による事件が報道されることがあっても、アメリカのような銃社会とはほど遠い状況にある。一方で、街を警邏する警察官たちの腰には<拳銃>がぶら下がっている。拳銃の使用に対しては正当防衛や緊急避難などの厳しい要件が伴うため、装備しているとはいえ容易には発砲できないものの、警官の数だけ拳銃が存在するという現実がある。約29万人の警察職員全員が携帯している訳ではないが、警察庁では毎年5000挺の拳銃を調達・購入し、民間においても狩猟や害獣駆除のために許可された銃が約19万挺もある(令和3年度)。これらの現状と、日常から置き去りにされてしまっている人々とを、“そこに存在しているはずなのに、そんなものは存在していないと見て見ぬふりをする”こととして暗喩させているのだと解せる。
「若き見知らぬ者たち」に点在させた、やや唐突にも思える<拳銃>と<警官>の存在。不穏さを纏わせたふたつのモチーフは、<正義>と<暴力>の不均衡を導くことで、観客の感情を逆撫でしてゆく。そういった鬱屈とする感情の集積は、例えば落書で汚された公衆トイレによっても劇中で可視化されていることが判る。当該トイレを出た彩人が<警官>との揉めごとに関わり、それが無情な<暴力>のトリガーとなってゆくことと、<拳銃>のトリガーを引くこととが対比された構成は見事だ。それゆえ、終盤のクライマックスとなる格闘技のタイトルマッチは、憎悪を孕むことなく人間と人間とがぶつかり合うという点で、<暴力>に抗う社会のあるべき姿や、他人と関わってゆく術といった内山拓也監督の論意を暗喩させているようにも思わせるのである。
(松崎健夫)