挑発に充ち満ちた続編だ。その威嚇的な展開は正編支持者の神経を逆撫でし、コミックスを聖典とするファンの逆鱗に触れ、そしてなにより、前作そのものを躊躇なくひっくり返していく。
DCを代表するスーパーヴィランの出自を新定義した2019年公開の「ジョーカー」は、多量の投薬で自制を保つ派遣のクラウンが、社会からの孤立をトリガーに闇堕ちする、現実をミラーリングした語勢で世界に一石を投じた。バチェラーコメディ「ハングオーバー!!!」トリロジー(2009〜2013)で笑いの属性を放ってきた監督トッド・フィリップスは、その流儀を悲劇へと容赦なく転調させ、バットマン神話の独自解釈を大胆にはかったのだ。
それから5年後、フィリップスが再び手がけたタイトルキャラクターの物語は、自ら新生させたはずのジョーカー像をも粉砕してしまう。副題に冠した「フォリ・ア・ドゥ」は、妄想障害が共有されていく症候群を指すフランス語で、すなわちジョーカーことアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)と、新登場する謎の女リー(レディー・ガガ)との関係を示している。既存のジョーカー伝説に照合すれば、彼女が何者なのかは歴然としているが、アーサーはそんなリーとミュージカルスターとして功を成す自分を夢想し、前回同様に現実と幻像を反復していく。そしてドラマは彼の凶弾に伏した人気コメディアン、マレーを含む5人の殺害を起訴した、自身が被告の裁判を並走させていくのである。
裁判の争点はアーサーの多重人格に置かれ、作品は次第にリーガルドラマとしての性質を剥き出しにしていく。その過程で妄想の産物だったジョーカーがアーサーを侵蝕し、社会を扇動した前作のように、彼の裁判は驚愕の様相を繰り広げていく。
しかし、この映画で真に驚くべきは、前作で声高に叫んだ主張を、根底から否定しかねない構成を編んだところにあるだろう。イントロを飾るルーニー・テューンズ風の短編アニメを起点に、それを布石とするラストの衝撃に至るまで、映画はアーサーの現実と夢想をシームレスに展開させ、かつてオーディエンスを撹乱してきた作術で、我々をさらに煙に巻いていくのである。確かにこれは、本国で賛否真っ二つに割れたというのを頷かせる。
だが、そんな過剰なまでの挑発は、悪魔が謀を編むように細心で、憎いほど計算高い創意に支えられているのだと諦視を忘れてはいけない。そう自らを律し、感情ではなく理性でこの映画を受容しないと、観ている自分までもが“フォリ・ア・ドゥ”に引き込まれそうになる。
(尾﨑一男)