見るからに寒々しい映画である。冒頭、雪が降る平原にバスからひとり降り立ち、村までの長い道のりを歩く主人公の姿を追っているだけで、しんしんとした寒さが伝わってくる。これから始まる物語を予言するかのような風景に、身が引き締まる思いがする。
カンヌ国際映画祭の常連で、「雪の轍」(2015)でパルムドールを受賞したトルコの名匠、ヌリ・ビルゲ・ジェイランが、再び雪に覆われた辺境の村を舞台に描くのは、不遜でひとりよがりの人間と、展望を持てない人々の絶望が重くのしかかる社会だ。
早く任期を終えて都会に出ることしか考えていない美術教師のサメットは、あることがきっかけで、唯一目に掛けていた生徒から「不適切な行為があった」と告発される。一緒に告発された親しい同僚ケナンも、ともに寝耳に水だったが、事態はあっという間に村に広まる。いったいなぜと自問するなか、誰かが「標的はケナンだったのかも」とサメットに耳打ちし、今度はケナンへの疑心が生まれる。奇しくも時を同じくして、最近知り合いになった英語教師の女性ヌライが、ケナンに興味を募らせていると察し、もともと自分が紹介したにも拘らず嫉妬の感情を抱き始めたサメットは、さらなる人間不信を募らせる。
疑心暗鬼が渦巻き、回答を得られない物語は決して気持ちいいとは言えないが、ジェイランの秀逸さは、映像の力と話術、簡潔にして鋭利なセリフなど総合的な技量で観る者を圧倒し、198分の尺をまったく長いと感じさせないところにある。彼の手に掛かるとどの会話も意味深になり、ちょっとした視線の動きが大きなサスペンスをもたらし、いっときたりとも油断できない。
なかでも白眉はほぼ15分に及ぶサメットとヌライの対峙のシーンだ。徐々に熱を帯びる議論のなかで、全てお見通しといった様子で挑発的なヌライの態度と、彼女への下心とプライドを傷つけられた怒りとの狭間で揺れるサメットの移り変わる表情には、鳥肌が立つほどのスリルがある。さらに、そんな緊張が次の瞬間、突如中断される展開の大胆さ…。
本作を観ながら、なぜこんな嫌なやつばかりなのかと、観客は呟きたくなるに違いない。だが同時に、ところどころで彼らに共感している自分を発見して驚くのではないか。
人間はちっぽけで卑しい。我々に春は来ない。そんな冷徹な宣告に心を打ち砕かれながらもなぜか、どこかに清々しさが残るのは、その正直さゆえかもしれない。
これぞマスターピースと呼びたくなる一本だ。
(佐藤久理子)