2023年・第76回カンヌ国際映画祭の監督週間に選出され、その年の同映画祭で上映された唯一のロシア映画「グレース」が10月19日から公開される。ドキュメンタリー出身の新鋭イリヤ・ポボロツキーが東欧の民話をモチーフに監督・脚本を手がけ、ウクライナへの軍事侵攻が本格化する直前の2021年秋に撮影を敢行。全編を通して陰鬱さの中に不思議な温かさを漂わせながら、ロシア辺境の大地と人々を独自の感性で描くロードムービーだ。
このほど、ポボロツキー監督のインタビューを映画.comが入手した。(インタビュアー:村尾泰郎)
<あらすじ>
ロシア南西部の辺境で、乾いた風が吹きつけるコーカサスの険しい山道。無愛想な目をした16歳の少女とその父親である寡黙な男は、錆びた赤いキャンピングカーで旅を続けながら移動映画館で生計を立てている。母親の不在が父娘の関係に影を落とし、車内には重苦しい沈黙が漂う。やがて2人は世界の果てのような荒廃した海辺の町にたどり着き、娘は終わりの見えない放浪生活から抜け出そうとある行動に出る。
――「グレース」は象徴的なイメージがちりばめられていて寓話的な物語ですね。
そう感じていただけると嬉しいです。というのも、ヨーロッパの神話や昔話をイメージして作った物語なのです。そうした物語の多くは、若い主人公が住み慣れた場所から旅に出て、そこで何か非常に重要なものを見つける。そして、元いた場所に帰ってきた時には大人になっている。つまり、旅を通過儀礼として描いているのです。ロシアの昔話の主人公は少年が多いですが、「主人公を少女にしたらどうなるだろう?」ということに興味を持って物語を考えました。
――少女は行く先々でポラロイド写真を撮っていますね。彼女にとって写真は旅日記のようなものなのでしょうか。
写真は旅日記であり、世界と彼女の関係を生み出すものです。彼女はカメラを通じて世界を見つめている。世界に対して関心を持っているのです。一方、父親はずっと自分の世界に閉じこもっています。父親はソ連崩壊後にすべてをなくした人達の象徴です。道端で本を売っている男性が出てきますが、彼も父親と同じような存在です。その男性や父親は本の世界に引きこもっているのです。今、ロシアでは世代間の対立が激化しています。ソ連崩壊後に自分の世界に閉じこもった父親の世代。それに対して、娘の世代は非常にオープンで世界に興味を持っている。ウクライナの戦争が始まって以来、世代間の対立はさらに深刻なものになっています。
――父と娘はそれぞれの世代を象徴する存在なのですね。世代間の断絶は乗り越えることができると思われますか?
乗り越えることができると思います。しかし、それは芸術の問題というよりは社会学的、政治学的な問題ではないでしょうか。今のロシアは個性が抑えられているので関係が断絶してしまう。ロシアはたくさんの州があって、それぞれ言語も違います。いま、「ロシア連邦」と名乗ってはいますが、それは名ばかりのこと。いつか様々な断絶を乗り越えて、真の意味で「連邦」になることができると思います。
――物語の中盤から少年が登場します。移動し続ける少女とは反対に、少年は村に閉じ込められていて旅をする親子に憧れる。そして、少女と少年は対照的な立場にありながらも心を通わせます。
少女は旅をしながら自分に似ている者を探しているのです。自分がいる世界に馴染めない、周囲から浮いてしまっている存在をロシアでは「白いカラス」と呼びますが、少女も少年も自由を求める白いカラスなのです。だから、少女は少年のことが気になって恋をする。それは愛とまではいかないかもしれませんが、少年は少女の内面が変化するきっかけのひとつです。
――今回の撮影は旅をしながら行われたそうですね。まず下見で一度、監督とスタッフが旅をして、その後、マリアとゲラを伴ってもう一度旅をしてから撮影に挑まれたそうですが、旅で経験したことは映画に反映されていますか。
農家の人、車の修理人など、映画に出ている人々の多くは撮影した場所で暮らしている人たちです。魚が大量に中毒死をしたシーンは、旅をした時に目撃したことを映画で再現しました。パンデミックのなかで撮影した作品なので、世界を大惨事が襲うことを予感させるようなエピソードになっています。また、撮影をしながら脚本を少しずつ変えています。砂漠の中で映画を上映するシーンは後から追加したのです。
――本作が撮影されたバレンツ海沿岸など、辺境の地に興味を持つのはどうしてですか?
私はこの映画で描いた土地を、以前から時間をかけて調査してきました。興味を持つ理由は、非常に魅力的で表情豊かな風景だからです。北極圏にも魅了されています。色調、色彩も素晴らしいですし、夜の美しさは息を飲むほどです。一方、撮影した土地は「帝国」の崩壊の場所でもあります。そこは90年代に人がいなくなり、今や帝国の遺跡と言ってもいいかもしれません。現在、ロシアの一部の人達は帝国を新しく、強くしようとしていますが、本作では帝国の遺跡に焦点を当てています。
――監督はこれまでノンフィクションの作品を撮ってきて、今回同じチームで初めてフィクションの作品を撮られました。何か気持ちの変化はありましたか?
ノンフィクションなのかフィクションなのは、それほど重要ではありません。両者に境界はないのではないでしょうか。ここ10年ぐらいドキュメンタリーと劇映画の境目にある映画が増えていると思います。そういう試みをすることで新しい表現が生まれる。ドキュメンタリーを作るとか、劇映画を作るとか、ジャンルを意識するのではなく、今作りたいものを作る。そのために必要な映画的言語を探しています。
――カメラを通じて世界を見つめる少女は、監督の分身のようでもありますね。
私もそうですし、私の友達、例えばこの映画に参加したカメラマンやサウンドエンジニアも私と同じような立場で世界を見ています。我々は少女を通して、いろいろなものを観客に見せているのです。
――この映画は旅をする人でなければ撮れない作品だと思います。自分も旅をしているような感覚で映画の世界に入り込みました。旅はお好きですか?
私にとって旅は生活の一部です。半年に1回は長い旅をするようにしています。観光客ではなく旅人として旅に出るのです。
――観光客と旅人の違いは何でしょう。
旅の「深さ」ではないでしょうか。私はスケジュールを立てず、方向だけ決めて出かけます。旅の時間も重要です。時間に縛られず旅をして、そこで新しい世界を発見し、いろいろな状況や感情を見出す。それが私の創作のためのコレクションになるのです。