「ジジイ2人が朝っぱらから、狭い部屋にこもって何やってんだか……」――。
映画の中で、寺島しのぶが発する、そんな辛辣なセリフに思わず笑いがこみ上げてくる。映画「八犬伝」(10月25日公開)で“ジジイ2人”――人気作家・滝沢馬琴と天才浮世絵師・葛飾北斎を演じているのは役所広司と内野聖陽。江戸時代を代表する偉大なる芸術家であり、親友同士でもあった馬琴と北斎を演じた2人が、俳優の視点で“表現者”の葛藤や欲望について語り合う。(取材・文/黒豆直樹、撮影/間庭裕基)
【「八犬伝」概要】
山田風太郎氏の小説「八犬伝 上・下」を役所広司主演で映画化。里見家の呪いを解くため運命に引き寄せられた8人の剣士たちの戦いをダイナミックに活写する“虚”パートと、その作者である江戸時代の作家・滝沢馬琴の創作の真髄に迫る“実”パートを交錯させて描く。監督は「ピンポン」「鋼の錬金術師」の曽利文彦。
●滝沢馬琴と葛飾北斎――演じるうえで意識したことは?
――滝沢馬琴と葛飾北斎の名は共に知られていますが、2人が互いの実力を認め合う友人であり、「八犬伝」など馬琴の著作の挿絵を北斎が描いていたということは、知らなかったという観客も多くいると思います。2人の関係性を含め演じる上で、大切にされたことは?
役所:北斎との2人のシーンで、ユーモアのある部分は、内野さんと一緒に、できるだけ拾っていこうというふうな感じに自然となっていたと思います。(映画は)馬琴が48歳の時から始まるんですけど、扮装に時間がかかるんですよね。毎朝、暗い内から入って、よもやま話をしながら、だんだんジジイになっていく姿を見て「老けたね」なんて言いながら(笑)、時間の流れを感じていましたね。
特に2人で話し合ってというわけではないのですが、馬琴はそんなに動かないので、そこは内野さんがいろいろ工夫して動いたりしてやってくれて、そこから生まれてくる面白みを探しながらやっていましたね。
内野:北斎に関して、曽利(文彦)監督から「馬琴の部屋に“風”をもたらしてほしい」と言われていました。馬琴さんは、うず高く本が積まれたあの部屋から一歩も出ずにあの大ファンタジーを生み出すんですが、一方で北斎は全国津々浦々を行脚してインスピレーションを得て絵を描くという創作家ですよね。その差異を出してほしいと。
(北斎は)自由人の極致みたいな人なので、その囚われない規格外の感じを出せたらと思っていました。実は北斎の方が年上なんですよね。でも僕は役所さんより12歳年下なので、そこをどうしたものかと……(苦笑)。尊敬する大先輩を前に後輩感が出ないようにしようというのは考えていました。仲が良さそうに見えつつ「絶対に俺の絵はやらねぇぞ」という意地悪な感じも大事にしたいなと。
――予告編でも出てきますが、馬琴の背中を机の代わりにして北斎がその場で絵を描く姿が非常に印象的でしたが、あれはもともと脚本には…?
役所:いやいや、ト書きにはそこまで書いてなかったよね。あの場にお百(馬琴の妻/寺島)が来て「ジジイが朝っぱらから――」というセリフがあるので、なるべく近いほうがいいだろうと。そこで背中を使うことになったんですね。
内野:そうですね。役所さんの方から「ジジイが2人、なんか変な態勢でいたら面白いんじゃないか?」という提案があって、いつのまにかああなっちゃいましたね(笑)。
あの構図ってすごく絵を描いてほしい馬琴と「描いてやるもんか」という北斎の関係性が見事に現われてますよね。支配する側と「描いてくれるなら何でもします」という側のM的な感じがあって、面白いですね(笑)。
●“表現する者”を演じる面白み
――お2人ともこれまで武将などの歴史上の人物は数多く演じてきましたが、特に今回のような芸術家、表現者を演じるという部分で面白さを感じるところはありますか?
役所:やっぱり憧れますよね、何かをやり遂げた人というのは。魅力的な人物でなければそこまでのことはできないだろうし、家族や友人といった周りの人たちがいたからこそできた部分もあるし、一方で馬琴も家族を犠牲にしてもいますよね。
ものをつくる人間が没頭してなりふり構わずやっているという部分には憧れますね、表現者の端くれにいる者として。
内野:僕は今回、北斎に出合ってよかったなとすごく思っていて、彼は社会的にはやっぱり、いびつな男ですよ。引っ越しを100回ぐらいしたという話もありますけど。死ぬ前までも絵が上手くなりたいとか言って、絵に対して全生命力をかけて、ひたすら人を楽しませて、驚かせてやろうと生きてきた人ですから、本当にバイタリティを感じるし、実際、87歳で描いた絵を見ても、ものすごい気迫を感じるんですよ、「何なの?このエネルギー…」って。
その端くれの端くれにいる表現者としては、北斎のバイタリティには本当にパワーや勇気をもらえるという気がしました。こうやっていつまでも向上心を持ち続けられるって素敵だなと思いましたね。
――現代でもクリント・イーストウッド(94歳)や山田洋次監督(93歳)のように、クリエイティビティや創造意欲が衰えるどころか、むしろ年を重ねて表現の幅や深みが増しているんじゃないか?というクリエイターもいらっしゃいます。お2人も若い頃と比べ、年齢を重ねる中で、表現・創作意欲が増してきていると感じることはありますか?
役所:まあ僕ら俳優の場合、魅力的なお話が来るのを待っている立場でもあるので、いつも良い作品、役に出合いたい、素晴らしい監督や共演者と巡り会いたいという気持ちではいますけどね。
自分でゼロから何かを生み出すというよりも、来た仕事を頑張って、それを見てくださった方が「こいつを使ってこういうことやってみたいな」と思っていただければいいなという気持ちですね。出会いを楽しんでもいるし、何しろ絶対に一人では何も生み出せない仕事ですから。集団の中のひとつの駒としてうまく機能するというのが楽しいんですよね。
内野:ちょっとご質問の趣旨とは離れるかもしれませんが、若い頃って、どちらかというと、自分の脳みその中で考えた形で展開させようとする気持ちが強かったりしたんだけど、年を食っていくと、徐々に“開いてくる”というか、いろんなものを取り込んで、もうそんなにひとりで力まなくてもいいじゃねぇかっていう気持ちが強くなるんですよね。
年を取って身体は衰えていくんですけど、心のスタンスが広くなるような気がしているので、それがうまく表現にも乗ってくるといいなという思いはありますね。若い頃よりも取り込むものが多くなっている気がします。脳内だけで考えがちだったのが、貪欲に取り込んで援用できたらいいのかなと。
●“奈落”での問答について「演じながら『これは永遠のテーマなんだな』と思っていました」
――劇中で、2人が「東海道四谷怪談」を観劇し、舞台裏の奈落で鶴屋南北(立川談春)と虚と実について議論を交わすシーンも印象的でした。“虚”の世界で理想や正義を追究しようとする馬琴と、“実”の世界は残酷で必ずしも正義が勝つわけでないからこそ、そんな世界をおちょくるような物語を描こうとする南北。どちらの思いにも共感させられ、考えさせられます。
役所:あれは台本を読んだ時から面白いシーンになるなと思っていました。この仕事に携わっている人間としては、南北のつくる世界に参加してみたい思いもあるし、馬琴の描く正しき者が報われる世界というのも王道で魅力的に感じますよね。
(馬琴の世界は)美しくはあるけど、そればかりでは面白味がなくて飽きてしまうので、南北の毒のある世界に身を投じてみたい思いもあるし……でも結局、行き着く先は、どちらも正しきものが報われる世界というものを感じてもらえるんじゃないかと思います。表現の仕方の違いなんですよね。演じながら「これは永遠のテーマなんだな」と思っていました。
内野:僕自身も「正しきものが必ず勝つ」という勧善懲悪の物語は好きだし、人間に内在する“毒”みたいなもの――それを露悪的なまでに出すのが南北作品だと思いますが、役者としてそれも大好きなんですよね。役所さんのお話を聞いて「俺もロマン派も好きだし、自然派も好きだな」と思っていました。
あのシーン、あの場での南北と馬琴の出会いというのは、曽利監督もエンターテイナーとして問題意識と思い入れをもって撮られているのを感じていました。
役者として、“虚”の部分をいかに“実”をもって伝えるかという部分で勝負しているところはありますし、馬琴が描くような荒唐無稽なファンタジーの世界も演じ手としては日常の表現ではかなわない部分にポンっと行けちゃうので、ワクワクするしすごく楽しいですよ。けれども、日常と同じ心拍数と呼吸でやる表現というのも、それはそれで追究しがいのある世界なんですよね。外連(けれん/仕掛けや道具を駆使して観る者を驚かせる表現)のある世界とそうではない世界――全く違う種類のものに見えて、同じ楽しさがあるんですよね。
●膝を突き合わせて語る“互いの印象”「“排気量”の大きさを感じた」「全てをやれる俳優」
――最後にいまさらではありますが、共演されてのお互いの印象についてもお聞かせください。特に今回のように、これほど近い距離で膝を突き合わせて、たった2人で語り合うというのは、今後も含めてなかなかないのではないかと…。
内野:そうなんですよ。以前、「砦なき者」(脚本:野沢尚、監督:鶴橋康夫/2004年)というドラマでジャーナリスト役をやらせていただいて、主演が役所さんで、かすかに共演はさせていただいたんですけど…。
役所:ほとんど絡みはなかったもんね?
内野:だから今回、ほぼ初共演で、僕はスクリーンやTVを通してしか役所さんを存じ上げなかったんですが、改めて共演させていただくと、まず何より“排気量”の大きさを感じましたね。
最初のシーンが先ほども話に出た鶴屋南北さんと出会うシーンだったんですよ。そこで役所さんも「緊張するなぁ」とかおっしゃっていたんですけど、南北に食って掛かっていく姿を見て、パワーの込め方が尋常じゃなくて、やはり役所広司さんという人はものすごい排気量だなと。
映画で培ったリアリティのつくり方というのが凄まじくて、そこは後輩として背中を見ながら「学びたいな」といろんな局面で感じさせていただきました。あとは、ちょっとしたズルさも感じました(笑)。とにかく大きな先輩ですね。
役所:いやぁ、内野という俳優を語るというのは……初めて見たのは映画の「(ハル)」(森田芳光監督/1996年)だったね。
内野:ホントですか? ほとんどデビューした頃ですよ。
役所:どこの俳優さんなんだろう?と思ったら文学座でね。それからは、映像も演劇もなんでもやっていて…僕は舞台をやる人にコンプレックスがあるんですよ。
内野:そうなんですか?
役所:「やらなきゃいけない」と思いつつ、ずっとやれていないんでね。こういう過酷な仕事をコンスタントにずっとやっている人はすごい力があるなと思っています。僕も演劇という、膨大なワンカットをやれるようになる訓練をしなきゃいけないと思っているんですけど、ずっと遠ざかっていると、内野さんみたいな人と2人で仕事をするとなった時、怖いですね(笑)。「この人、2時間をワンカットでずっとやっちゃう人だからな」って。
内野:演劇はご自身で遠ざけてしまったんですか? 僕は、役所さんは「全てを映画に投入した人」なんだと思って見てましたけど。
役所:30歳くらいまでずっと、年に1本は演劇をやってたんですよ。ただね、当時はほとんど翻訳ものなんです。翻訳家の方が演出する芝居に出てたんですけど、そうすると「このセリフはちょっと……」となっても「翻訳はこうするしかないんです」というのが何か所かあってね。
内野:翻訳家さんの選んだ日本語が「ちょっとこれは……」という?
役所:そうそう。「(役者の生理として)本当は違うんだよなぁ……」と思いつつやるのがすごく嫌でね。やっぱり日本人が書いた本をやりたいなと思ったんだけど、新作の戯曲で企画を立てるとなると、1年後とかになってしまうし、どんな本になるのかもわからないわけですよね。そうこうしている間に、映画のほうに呼ばれるようになって、だんだん演劇から離れちゃったんだよね。だから映像と演劇の両方をコンスタントにやっている人って本当にすごいなと。
内野:お師匠(※役所が所属した「無名塾」の仲代達矢)はそうじゃないですか。
役所:だから僕はダメな弟子なの(苦笑)。でも内野くんは、俳優として本当にオールマイティだなと思いますね。何をやっても内野聖陽としての魅力を出しつつ、全てをやれる俳優なので、一緒に共演する上では信頼できますよね。
文学座のエースだけあって、凝り性なところもあってね(笑)。「もういいんじゃないの?」というところもこだわり始めると……。寺島しのぶさんとは文学座で同期だったから、しのぶちゃんのいる時は2人でずっと文学座の話をしていて、僕はポツンと置いてかれていました(笑)。でも楽しかったですね。