初監督作「散文、ただしルール」がカナザワ映画祭2022「期待の新人監督」にてグランプリを受賞した川上さわが、20歳の時に撮った初長編映画「地獄のSE」が公開された。
海辺の町を舞台に、中学生たちの青春や複雑な心象を特殊画面や字幕、アニメーションなどを用いて独創性あふれる映像で描きだす。本作を「類を見ない怪作」と絶賛するポレポレ東中野スタッフの小原治氏がその謎に迫るべく、川上監督へのインタビューを敢行。その全文を映画.comが入手した。
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映画は様々なレイヤーを経由して初めて観客の中にうまれおちる。川上さわ監督の劇場デビュー作「地獄の SE」もまた様々なエキスの複合体であり、その一つ一つに映画表現の新しい接触面を開拓している。(インタビュー&構成:小原治/撮影:兒崎七海)
小原:映画を撮ることに至った経緯をお聞かせください。
川上:もともと興味があったのは詩でした。ただ私は詩の世界は好きだけど、詩を読むことが上手くなかったので、そうじゃない詩のあり方を考えていた時期に映像詩というものがあることを知り、ジョナス・メカスの「リトアニアへの旅の追憶」を見ました。これまで見たことのない映像に衝撃を受け、映画というものに本格的に興味を持ち、大学も映画の制作だけではなく原理や思想が勉強できるところがいいなと思って今の立教大学の映像身体学科に入りました。岡山から上京したその年の4月に初めて行った東京の映画館がポレポレ東中野で、その時にレイトショーで見たのが山中瑶子監督の「あみこ」でした。
小原:初めてメールをくれた時も、「『あみこ』を見て、私も早く映画を撮らなきゃって気持ちにさせてくれました」と書いてくれてましたよね。「そう思わせてくれた映画館」とも。うれしかったです。
川上:はい。新作「ナミビアの砂漠」を見てもそう思いました。あとは大学一年の授業でロベール・ブレッソンの映画を全作見たことも大きかったです。ブレッソンの映画って何も起きないなと思って見ているにつれて実は何かが起きまくっていると思えた感覚がすごくうれしくて。その授業が終わった後、すぐ映画を撮りました。
小原:それが「散文、ただしルール」ですね。しかも冒頭がキャシー・アッカーの言葉で始まったのでびっくりしたけど、この映画のおもしろさの理由もそこにちゃんとあって。
川上:端的な理由としては文字から始まる映画が好きなんです。最初に言葉があって、そこから映画世界との異化作用により派生していくもの、広がっていくものを示そうとする意図はありました。アッカ―の「Pain in the world. I don’t have anywhere to run」の次に主人公のカットがつながることで走り出す映画世界があると思って。私はゼロから新しいものを作ろうとすることが苦手で。説明がないとわからないタイプだから。
小原:映画ならではの勢いを全編に通わせる構成に魅せられました。従来とは別の約束事で映画が組み直されていくダイナミズムがあった。アッカーも様々な手法で既存のストーリーテリングを換骨奪胎させながら独自の語り口を開拓した作家でしたね。
▼ポップに、ちゃんと楽しいものをつくる
川上:「散文、ただしルール」でカナザワ映画祭の期待の新人監督賞をいただき、竪町商店街さんからの支援を受けてスカラシップで映画を撮らせてもらうことになりました。私が最初に脚本を書いてカナザワ映画祭の方に送ったんですけど、本当に私が描く脚本はト書きが少なくてめちゃくちゃわかりにくいと思うんですけど、それでも全部好きなように撮らせていただけて、それがすごくありがたかったです。
小原:確かに脚本状態が全く想像できない映画だけど、完成した「地獄のSE」は最高におもしろかった。まずこんな映画は見たことがない。それが理屈優先の解体じゃなく、あくまでも映画としてのおもしろさを追求した結果として形になっている。
川上:「地獄のSE」は映画におけるストーリーテリングを解体する狙いはあったけど、結果映画をわかりにくいものにするのではなく、それをどうつなげばよりポップになるか、ちゃんと楽しいものになるかを考えながら作りました。映画を見たひとは、エンタメであることを忘れないところがいいと言ってくださることが多くて、たしかにそれが私のしたいことと近いなと思っています。
小原:「地獄のSE」の冒頭も言葉から始まりますね。テロップも不鮮明で最初の「電車でおっさんが狂っていた」は読めるけど、そのあとは文字を追うのに必死で読み切れない。でも背後に映っているのはアゲハチョウの死骸とかだから不穏な何かがそこでは語られているということだけはとにかくわかる(笑)。このプロローグが映画の舞台全体に不穏な雰囲気として帯びています。
川上:映画の舞台として設定したのは海も山もある田舎なんですけど、海ってどこにでも行けそうだけど実際にはどこにも行けなくて、その狭間になにかが溜まっていきそうなイメージというか、自分がそこにいると世界はここにしかないと思ってしまう場所。それは地元にいたときにずっと感じていたことでもありました。劇中の町も既に終わってはいるんだけど、その中にも全然日常があり、恋して、カラオケ行ったりが続いているのが本人たちにはすごく大事。あの町の大人たちは日常の中で仕事の会話しかしないけど、中学生たちは自分の実感や気持ちを大事にしていて、それが結果としてあの町に帯びた空気への抗いにもなっている。抗ってはいるけど、ゆらぐときもある。
川上:現場ではみんなで自由に動画やスチールを撮りまくっていました。それは劇中の中学生たちがカラオケに行ったりする日常のノリにも近くて。あのアゲハチョウの死骸もスチールの兒崎が本人視点で撮ってくれた映像なんです。いろんな視点を作品に取り込めたのがすごくよかったし、「地獄のSE」のこのイメージは場面写真よりスチールの方が伝わると思っています。
小原:場面写真よりスチールの方が伝わる映画……なるほど。
川上:この映画を露悪的にはしたくなかった。絶対に。優しい話ではないけど、優しさがない話ではないし。キュートでポップだし、見ながら笑ってほしい。絶望を取り扱ってはいるけど、前には進もうとしている作品だから。人がちゃんと日常を過ごしながら、恋をして、遊んでみたいなことをやりたくて。そのイメージが兒崎がフィルムで撮ってくれたスチールには出ていると思います。
▼複雑さと対峙した時に詩が生まれる
小原:「どこにもない海辺の町」があの異質な劇空間に囲われていることで「どこまでも架空の青春映画」としてエフェクトしてくる。実体があるようでない、ないようであるみたいなエフェクト。この奇妙な感覚に川上さんのフィクションとの距離の取り方が表れているし、タイトルの「地獄」もそこに繋がってくる気がします。
川上:地獄は昔から興味があって、地獄の本とかよく読んでいました。変な罰とかめっちゃあって、でっかい風呂釜とか犬に噛まれるとかヤバ(笑)って。そんな罰に対して生きてる人間は真剣に嫌がっていたり。地獄行くの嫌だから悪いことしないみたいな。日常的にもいやな言葉として使ってるし。地獄だ~とか。深刻さとコミカルな部分がつながっている。「地獄のSE」というタイトルもそんな慣用句として作りました。
小原:実は「地獄のSE」は今年一番笑った映画でもあるんだけど、そのなかで描かれているものは人の心の暗い部分も少なくないから、一本の映画を通して何ともいえない複雑な味わいが醸成されていきます。
川上:私の場合、複雑さと対峙した時に詩が生まれると思っています。複雑さと対峙することは大変なことで、だから映画を撮りたいと思ったし、「地獄のSE」の画面は複雑な現実に対する心象風景にしたかった。カメラは現実にある物体をそのままそのものとして写しますが、カメラでただ写すより現実に生まれるイメージはもっと複雑だと思うのです。実際の問題としても、いろんな感情を持ちながらそれを細かく精算せずに大きく精算してしまうことで悲しいことが起きてしまう場合がある。もっときちんと対峙できていたら、避けれたかもしれないことってあると思っていて。
小原:登場人物みんなおもしろいけど滑稽ではない。むしろ存在としての気高さがあり、美しいとさえ思う。それがいま川上さんが言ったことと関係しているのかもしれません。
川上:みんなマジレス。そこがカッコいい。
▼当時言語化できなかった気持ちを台詞にしてみる
小原:主人公を中学生にした理由は?
川上:中学生っていろいろ考えてること、感じてることがあるけど言語化するのがまだ難しくて……私がそうでした。そうやって溜め込んでいたものを当時言語化できていたらよかったな~と思って。だからいったんそれを言語化できるキャラクターを作ってみようと。こんな中学生いたらいいな~という気持ちで。
小原:わぁ、そのアイデアもおもしろいですね!
川上:天野(綴由良)とか島倉(瞳水ひまり)はしゃべり続ける。でも早坂(わたしのような天気)はどちらかというと私に似てうまく言語化できずに溜め込んでいる。でもでかい感情もあって、それもいいことだなと思う。中学生って本当はもっといろいろ考えてるよってことがしたかった。
小原:それが映画の画面とどう響き合うのかを物理現象のように実践していますね。台詞の構成から実験的かつポップ。
川上:台詞を書くのが好きで。昔は小説も書いていたけど、人に言ってもらう台詞を書く方が私は楽しいって気づいて。そのひとの培われた発話とか癖とかを使って台詞を書くのが好きだし、そのひとの中にあるものをスタートにしながらそれをどんどんフィクションにしていく。本当はノンフィクションのものがあるけどそれを架空の世界に立ち上げたときに何に対応するのかを考えて台詞を書いたりしています。
小原:その距離の不一致感があの字幕効果によって一層出ている。映画表現としてこんな字幕の使い方を見たことがなかったのでびっくりしました。川上さんはさらりと言うけど、やってることはほんとにおもしろい。
川上:あの字幕も従来の用途ではなく、この映画に必要な距離を作りたくて。セリフを文字化することで、その場で起きていることから離れるために。もちろんアクセシビリティへの対応でもありますが。
小原:その中学生を演じるのは詰襟の男子学生服を着た女の子たちですが、この演出意図は?
川上:これはいろいろ悩みました。ただ、普段演劇を見たりしていて、自由に存在するあらゆる属性を組み合わせてお芝居にしてそれを俳優に付与したときに出るニュアンスはあるなと思ったので、それを写したかった。それを「男装」という言葉で片づけられてしまう世界からなるべく切り離すための字幕効果だったり、画面に一枚もやをかけたりして「これは映画です!」の距離を意図的に作るための工夫を今回はいろいろしました。俳優さんも役についてとても考えてくれて。役との距離をどこまで詰めて、どこでストップしたらいいのか。そのバランスをすごく考えてくれたから完成した映画です。劇中で俳優さんに演じてもらっていることのひとつが男性の加害性的部分ですが、それだけをむき出しに描きたいわけじゃない。登場人物たちの恋や愛の表現を映画として支えるための選択としても。
▼石板のように映画を残したい
小原:次回作の話も耳にしています。川上さんの中で映画作りが続いている理由ってなんだろう?
川上:私は実際にあるものより、それを見たり触ったりしたときに生まれるイメージの方に興味があります。映画も実際にあるものを写しているのに、そこからイメージが生まれるから不思議で。魔法みたいでおもしろいなと思います。頭の中で考えているときの風景や、過去にはあったけどもう見えないイメージなどが映画を通して作られたときに喜びを感じます。あと映画は基本めっちゃ残る。石板の次ぐらいに残ると思っています。
小原:すごい! 詩も音楽も残るといえば残るけど、特に映画は残ると川上さんが強く感じている理由ってなんだろう?
川上:なんででしょう……(笑)。勝手に思っているだけで、映像の力を信じたいだけだと思う。実際には努力しないとフィルムもテープも残らないし。でも体験として脳にこびりついて離れない映像ってたくさんあって、実際の残らなさを考えた時に「石板の次に残る」ってなんか私は言いたいんだと思う。正確には、石板のように残したい、かも……。
「地獄のSE」は、ポレポレ東中野で公開中。