内野聖陽が演じる役柄は、なぜこんなにも魅力的なのか――? それがこのインタビューの議題である。人気漫画のキャラクターであれ、多くの俳優たちによって演じられてきた歴史上の人物であれ、どんな役柄であっても、彼が演じる役には、原作や役柄への深いリスペクトとともに、内野聖陽にしか出せない個性や味が加えられ、映画やドラマで見るべき価値を与えてくれる。
「カメラを止めるな!」の上田慎一郎監督と組んだ最新主演作「アングリースクワッド公務員と7人の詐欺師」(公開中)は、韓国の人気ドラマを原作とするクライムエンタテインメント。内野が演じるのは、マジメだが気弱な税務署員で、天才詐欺師と組んで悪徳企業の社長から未納の税金10億円を騙し取ろうとする。韓国のオリジナル版ではマ・ドンソクが演じたこの主人公を、内野はどのようにして自分の役としていったのか?(取材・文・撮影/黒豆直樹)
――本作に出演するにあたり、撮影前から上田監督と打ち合わせを重ねられたそうですね?
上田監督は普段からリハーサルなどをしっかりとされる方だそうで、カメラを回す前に入念な打ち合わせをされたがっていたんですよね。今回、これだけのメンバーが出演するということで「そういう時間を持てるのだろうか?」と不安を抱えていらしたそうなので、こちらからも「やった方がいいんじゃない?」と言いました。僕もリハーサルをやるべきところはやったほうがいいと思うタイプなので、「上田くんがやりたいようにやったら?」という感じで、特に(自身が演じた)熊沢という役に関しての話から始まり、時に岡田(将生)くんと実際の会話のセッションをやったりもしました。
――具体的に上田監督とはどのような話を? 打ち合わせに現れた内野さんの脚本にはものすごい量の付箋が貼ってあったそうですが……。
オリジナル版の韓国ドラマは全16話あって、それを1本の映画にするということで、最初は情報量が多すぎて、ちょっと整理をしないと……という状態だったんですよね。そこで自分なりに浮かんだ疑問について「これはどういうこと?」と尋ねて、1個1個クリアにしていきました。役者の側からすると「ドラマを見てないとこれはわかんないでしょ」という部分がたくさんあったので。
そうすると、上田監督が次の打ち合わせまでにいろいろと考えてきて、次の稿、また次の稿という感じで最終的に14稿までいきましたけど、稿を重ねるたびに前回の課題がクリアになっていって、どんどん精度が上がっていくんです。これほどの成長度で稿を重ねる人を僕は見たことがなかったです。なかなかゴールが見えず、心が折れそうになる瞬間もありましたけど、彼の熱意に助けられまして、「わかった。じゃあ、とことん付き合うよ」と。だから現場に入る頃には、監督の一番の理解者は俺なんじゃないかというところまで来ていましたね(笑)。
――韓国ドラマ「元カレは天才詐欺師~38師機動隊~」を日本版の「アングリースクワッド」に変えていく中で、軸になったのはどういう部分ですか?
僕の熊沢というキャラクターに関する限りでは、怒りという感情を忘れてしまった人物が、詐欺という“演技”をする中で人間回復するというか、「生きるって面白いね」「演技するって楽しいね」と演技に目覚め、そして怒りに目覚め、復讐を決意していくというところですね。
公務員が詐欺で復讐するなんて、はっきり言って荒唐無稽ですけど(笑)、そのフィクションをどう乗り越えるか?という部分で、振り幅をどうつけるかみたいなところが軸だったような気がします。
――打ち合わせの中で、オリジナル版でマ・ドンソクさんが演じたキャラクターから離れようということを、上田監督にも伝えられたそうですね?
そもそも僕は、この映画をやるにあたって、韓国ドラマから原作を借りるにせよ、原作を忘れさせるようなものであってほしいという思いが最初からありました。その時に“熊沢”という苗字について監督に「もしかしてマ・ドンソクをイメージしてる?」と聞いたら「そうです」ということだったので「韓国版のイメージからは離れませんか?」と提案し、名前もいったん別のものに変えたんです。僕自身、“熊”という言葉からマ・ドンソクさんが演じた役のイメージに引っ張られてしまう危惧があったので。
ただ、先ほども言いましたが、稿を重ねるたびに脚本が磨かれていきまして、「これはもう上田監督のオリジナルと言ってもいいんじゃないか?」というところまで来た時に「別に熊沢でもいいよ」と言いました(笑)。
――詐欺のターゲットである“大ボス”橘を小澤征悦さんが演じていますが、橘と熊沢の対峙は本作の見どころです。序盤では気弱な熊沢は橘にワインを頭からかけられても何も言えず、中盤では詐欺を仕掛けるためにコンタクトを取り、さらにクライマックス……と、シーンごとに熊沢の表情やふたりの関係性が異なり、見応えがありました。
僕はこの映画の大黒柱は熊沢ではなく、橘だと思っています。詐欺をするというフィクションをどれだけリアルに見せるかいうところで、巨悪がいないと成立しないですよね。だからキャスティング前から「橘役は誰だろうね?」と話していて、いろんな人が(候補に)上がって、最終的に小澤さんに決まった時は「よかったじゃないですか!」と(笑)。何度も共演もして仲良しなんですけど、ビシッと決めるところを決めてくれるのでね。
――実際の撮影現場での小澤さんとのやりとりはいかがでしたか?
橘から頭にワインをかけられるシーンも、すごく上手にかけてくれるんですよ。メガネのフチにワインが溜まるんだけど、あんなのマグレじゃできないですよ。OK出た時は僕よりも小澤さんがガッツポーズしていました(笑)。普段、僕は“征(せい)ちゃん”と呼んでいるんですけど、「さすがだね、征ちゃん。ナイスだったね!」「任せてくれよ」という感じでね。プロとしての信頼関係があって良かったですね。
もちろん、初めて共演する役者さんとの緊張感も大事なんですけど、気心知れた相手役というのも、それはそれでメリットがあって、今回のインパクトのあるクライマックスでも「見事!」という表情を見せてくれましたね。あのラストも台本の打ち合わせの時点で、すごくこだわって、最後までなかなか答えが見えなくて「どうする? どうする?」という感じだったんです。監督が最後に「こういうアイデアで」とまとめてくださったんですが、そこにたどり着くまで、アクションコーディネーターさんとギリギリまで話し合って作っていきましたし、一番大事な“終止符”だったので、シナリオ上でなかなか答えが出せなかったシーンでした。
リハーサルで僕と小澤さんがやってみて、監督も「それでいきましょう」となったんですけど、本番の撮影現場でさらにその上をいくような小澤さんの表情が出てきて、あれはリハーサルでは絶対に出ないものだし、小澤さん自身「俺ってこんな表情するんですね」と言っていたくらいでした。そういう想像もしてないものが出てくるのが現場の面白さですね。だからこそ、あまり打ち合わせで完成度を求めすぎると面白くなくなっちゃうというのは上田監督も言っていたし、俺もそう思います。(打ち合わせは)ある程度の外枠づくりですよね。でも、現場に入ると走り出しちゃうので、その前に深めておかないとダメだよね……というところを今回、喧々諤々とやっていた感じでしたね。
――先ほど、マ・ドンソクさんのイメージから離れたという話がありましたが、「きのう何食べた?」のケンジしかり、「真田丸」の家康しかり、内野さんにしか出せない個性が役にのっているからこそ、多くの作品で内野さんが演じる役が魅力的だと支持されるのだと思います。役を演じる上での自分なりの個性やオリジナリティについて、どのようなことを意識されていますか?
難しい質問ですね……。歴史上の人物と原作ものでまた違ってくると思いますが、前提としてもちろんリスペクトを常に持っていて、例えば家康さんのお墓参りもしますし、原作もののビジュアルもすごく大事にします。特に漫画はビジュアルのイメージがすごく強いですから、そこは絶対に外せません。
けれども、生身の役者が演じる場合、内野聖陽という個人の人間性や生き方など全てをひっくるめて、その人の魅力が出てこないとどうしようもないと思っています。その意味で、僕が一番大事にしているのは「自由であること」なんです。原作のビジュアルや実在の人物が持つ歴史――そこから自由になることが、僕の表現者としてのテーマであり、こだわりだと思っています。(「きのう何食べた?」の)よしながふみさんが作画されたあの美しいビジュアルからさえも自由になりたいという思いですね。
――それは、リスペクトが前提としてあり、視聴者や観客を納得させた上で……?
それは当然です。その上での自由ですね。物語の中で、キャラクターが生きていないといけないわけで、そのためには内野聖陽自身が、例えば家康の恐怖や野心を実感していないといけないんですよね。
一方で「ここは原作ファンのみなさんが大事に思ってるよね?」というシーンは、俺もそう思っていて、「ここのケンジってかわいくて、切なくていいよね?」と、みなさんと同じように感じているので、絶対に大事に演じなきゃ!と思ってやっています。
でも、そこからさえも自由になれるとも、どこかで思っています。原作ではこういう顔だったけど、生身でやったらこういう顔でしょ?という部分もあります。
――原作や歴史という“縛り”があることを、むしろ楽しんでいるようにも見えます。
それはありますね。それこそ、原作でケンジがこういう(両手を胸の前で交差して肩を抱きながら)かわいいポーズをやったら、俺もやりますけど、それは「原作がこうだから」じゃなくて、「俺がやってみたい!」からなんですよね(笑)。それはもう俳優としての欲求であり、そうなると、それは既に“縛り”ではないですよね? 楽しみたいだけ(笑)。
だから、そうやって自分自身が自由に楽しめるというレベルまで到達することが表現者として大事なことなんだと思います。