「映画のファッションはとーっても饒舌」という湯山玲子さん。「映画ファッション考。物言う衣装たち。」は、おしゃれか否かだけではなく、映画の衣装から登場人物のキャラクター設定や時代背景、そしてそのセンスの源泉を深掘りするコラムです。
日本映画は衣装に関して、ずっと無頓着だった。
自身の映画に染織家の浦野理一の着物を採用し、登場人物の風情を表した、小津安二郎など、ご本人がディレッタントでもあった伊丹十三など、美学を重んずる監督以外、ファッションについてそれほどの感心がなかったからだろう。
特に女性に関しては惨憺たるもので、お嬢様、不良少女、女子学生、主婦、水商売、愛人と、実はそれぞれの装い方のリアルには、おカネのあるなし、地方と都会、登場人物のバックグラウンドなど、細やかなレイヤーがあるにも関わらず、紋切り型ばっかり。愛人ならば、ミニスカートにシーム入れストッキングにハイヒールに赤い口紅で一丁上がり、というお手軽パターンです。
さて、80年代以降、これまでの衣装担当のセンスでは、さすがにちまたのオシャレ感覚には追いついていけない、と危機感を感じた創り手たちは、今度はファッションの花形たる有名スタイリストに、衣装を丸投げするという流れも出てきた。しかし、これも考えものであり、抜擢された著名なスタイリストが、映画の内容とは関係なく、おのれのクリエイティヴを勝手に爆発させてしまって、悲惨なことになってしまった作品も多いのだ。
でもって、伊賀大介である。
▼ファッションの社会性を表現した「ジョゼと虎と魚たち」
メンズノンノらの男性ファッション誌や、ミュージシャンのスタイリングで知られた彼が最初に映画の衣装を手がけたのは、「ジョゼと虎と魚たち」という、田辺聖子の小説を犬童一心が監督した、足の不自由な少女と平凡な大学生の切ない恋愛映画だった。この作品は、一般公開以前から、業界関係者間でたちまち高い評価を受けた作品だが、試写を観た私が仰天したのは、その衣装スタイリングの素晴らしさであり、宣伝担当に「衣装担当って誰?」と名前を聞いた記憶がある。
大阪の貧民街に老婆とともに住む足の悪いハンディキャップの少女、ジョゼ。老婆はジョゼを乳母車に入れて明け方の街をさまようのだが、まず、その老婆の着こなしが凄いのだ。開発途上国のゲットーには、古着を重ね合わせて着こなす、異様にカッコいい住人たちがいたりするのだが、まさにそんな感じのコーディネイト。黄土色のダッフルコートの裾から柄物のロングスカートがはみ出した感じは、まさにこの作品に描かれていく「貧しさ、悲惨さの中にある高潔なエレガンス」の前触れだったのである。
めったに外に出ず、家の押し入れの中で古本を読みふける毎日を送っているジョゼの出で立ちは、チャイニーズっぽい赤いサテンのブラウス、プーマのロゴ入りジャージトップス、薄手の水玉ワンピースの下にはタートルネックセーター、柄物の靴下などなど。それぞれの単品は、古着愛好家として知られる、伊賀の面目躍如的アイテムだが、カッコよさを思いっきり押さえて、それらが拾いもののゴミであることと、ジョゼが引きこもる「城」、つまり人目の無い楽園での好き勝手の装いであることが豊かに表現されていく。
しかし、ジョゼがボーイフレンドとともに、外の世界に出かけていくときのファッションには、その気ままな猥雑さが消え、「着こなし」という社会性がきちんと現れてくる。伊賀大介のスタイリングには、そういったファッションにおける、心理学、社会学がきちんと存在するのだ、そう、人間は、人目を気にすることで着るものが変化するのである。
主人公のキャラを表す補助線としての衣装は、ジョゼの恋敵となるモテキャラ女子大生にも思う存分発揮される。淡いピンクのケーブルニットのタートルは、コンサバなモテのファッション記号。そのピンクは次には、ジャケットやプルオーバーとなり、ミニスカートと組み合わされるその足には、男性の視線が刺さることを見越しているようだ。それだけならば、単なる男受けコーディネイトだが、伊賀大介は常にその首元に、手編みのグランジストールを加える。この手のモテキャラ女子がよく使う、欲望のカモフラージュ作戦だが、ほとんどの男性監督は、そういう、ビジュアル言語を理解できない。伊賀大介が映画界で重宝されるのは、その卓抜な「読み」にあるのだ。
▼「地面師たち」犯罪バイオレンスものでも光る才気
話題の「地面師たち」衣装クレジットにも伊賀大介の名前を見つけた。豊川悦司演じるところの地面師グルーブのボスは、ハンニバル・レクターを思い起こさせる、悪の哲学と美学を持ったサイコパスだが、常に仕立ての良い、ブラウン系のスーツを着用。シャツはバープル系で、茶と紫の組み合わせは、ヨルゴス・ランティモスも「憐れみの3章」使用した、イッちゃっているタイプの御用達。
能力も高く、気っ風もいい、小池栄子演じるところの手配師は、赤のトップスを多用し、一見キャリアウーマン風だが、その足下がミスマッチな白のミュールサンダルだったり、量販店で売っていそうなタンクトップをたまに着たりで、元ズベ公だっただろうという素性がバレバレ。と、このような小ワザの一方で、乱交上等でホストに入れあげる大地主の尼僧のデートファッションには、総レースが肌に張り付くような肉感度マックスのトップスを着せて、笑っちゃうほどのエロ仕様。
こういった犯罪バイオレンスものは、役柄が記号的にわかった方が良いので、スタイリングにそれほどの自由度はないが、そんなお仕事でも、伊賀の才気は光る。
▼ヴィム・ヴェンダース「PERFECT DAYS」、タイアップくささを感じさせないスタイリングの妙
インタビューで、彼はもともと映画ファンであり、スタイリングに際しては、監督に登場人物のキャラやイメージを深く聞き込むのだという。ジョゼ以降、多くのヒット映画の衣装を手がけることになるが、彼が敬愛する監督、ヴィム・ヴェンダースが東京を舞台に撮り下ろした「PERFECT DAYS」でも、その才能を大いに発揮していた。
主人公は役所広司演じるところの都内の公衆トイレの清掃人。下町のボロアパートに暮らす彼の生活環境は、「起きて半畳寝て一畳」を地でいく、必要最小限のモノしかないミニマリスト空間。質の良いベーシックウェアを丁寧に着続ける彼が履いているのは、清掃人にとっては汚れが気になりそうな白いスニーカー。と、このイントロ部分の主人公のファッションだけで、過去に彼がそういったこだわりを持てるだけの財力と文化資本を持っていた、ということが一発でわかってしまう。
ヴェンダースは、この主人公に、鴨長明「方丈記」に描かれた、仏教的な無常観と清貧を生きる隠遁者を重ねたに違いなく(彼が読んでいなくとも、このイメージはその後の数々のコンテンツによって、日本の美意識として発信されている)、それは彼が掃除して回る、デザイナーズトイレともいうべき公衆便所の未来的な存在とともに、外国人が求めてやまないクールジャパンの姿だ。
と、ここで気がついてしまうのが、それってユニクロがずーっと仕組んできた、日本発のシンプルライフスタイルウェアのコンセプト、まんまなのでは?! という想いである。実は、映画を観てから後に知ったのだが、実際この作品、東京オリンピック開催を背景に、ユニクロの柳井康治氏(ファーストリテイリング取締役)が個人のプロジェクトとして推進してきた「THE TOKYO TOILET」が背景にあり、タイトルロールにはユニクロのロゴが燦然と輝く。
しかし、そのバックグラウンドが明かされても、伊賀のスタイリングと、ヴェンダース監督独特の光と影の映像美、タイム感と、台詞のほとんどない主人公の役所広司から伝わってくる存在感の三位一体が成功しているので、タイアップくささは無い。主人公のシャツがはためくたびに、こういった清貧の男が晩年になって到達した、豊穣な精神と生き方に思い至る。
▼映画のカルチャー記号の使い方には違和感
しかし、物語が進むごとに気になる「雑音」が入ってくることになる。そう、その静謐な日常描写には、主人公の人となりをを表す本や音楽の断片が差し込まれるが、それらによって彼の人物像に、「紋切り型の文化系オヤジ」というある種マーケティングっぽいタグがつけられてしまったのだ。
人物は、本棚とレコード棚のラインナップでわかってしまう、といわれるが、さて、その本に関してのラインナップは、フォークナー、幸田文にパトリシア・ハイスミスが選ばれる。申し訳ないが、それらはカルチャー雑誌の本特集で選ばれ、ブックディレクターが選ぶデザイナーズホテルの本棚のごとし。いろいろあって、現在の方丈記的清貧生活を送主人公を代表させるには、どうも納得がいかないのだ。この中で幸田文だけが、主人公が古本屋で購入する本なのだが、主人公の現在の心模様を強烈に表現してしまう重要局面としてはモヤモヤ感が残った。
主人公が愛聴する音楽も同様。タイトルにもなったルー・リード楽曲はともかく、パティ・スミス、金延幸子と、これも業界教養的ロックアイコンが並ぶ。いやいかし、主人公の年齢の音楽好きのリアリティーとしては、パンクロックではなく、絶対にブルース、ソウルミュージック方向なはずですよねぇ?
おまけに、石川さゆりを起用したスナックのママが歌うのが、ちあきなおみの「朝日の当たる家(朝日楼)」なのですよ。こちら、昭和歌謡マニアの発掘成果のひとつとして知られる楽曲で、どうみても 普通のスナックのママが歌うリアリティーは皆無。この場合は、「天城越え」でしょ。ご本人じゃないか! とツッコミが入りそうだが、それはそれで、このミニマルな映画時間の中では、ユーモラスに面白かったのにね。
こういう作品の質を決定してしまう、超重要なディテールアドバイスは、本当に取扱注意なのだ。この作品、上記のカルチャー記号だけを全取っ替え、もしくは消去すれば凄い良い作品になったのに……。寡黙で展開が少ない映画だからこそ、伊賀大介は、隙がなく、主人公の内面を想像させうるスタイリングを実行したのに、その強度が大減速してしまった感あり。
というわけで、急ではありますが、伊賀大介さん、オペラの舞台衣装、やってくれないかな。ジョゼで見せた「貧乏エレガンス」は、プッチーニの「ラ・ボエーム」にぴったりだし、ミニマリズム感覚は、フィリップ・グラスの「海辺のアインシュタイン」などを蘇らせてくれると思うのですよ。