“本当に愛している人が全てを失ったとき、あなたはその人のことをどう思いますか”
新作『ラスト・ナイツ』について監督:紀里谷和明が話すなか、とりわけ印象的だったこの言葉。
2004年『CASSHERN』で映画監督デビューし、2009年には『GOEMON』を発表。その斬新な作風で世界中を魅了した彼の最新作『ラスト・ナイツ』が11月14日(土)に公開となる。今作は彼にとって初のハリウッド作品となり、モーガン・フリーマン、クライヴ・オーウェンといった名優が出演するなど、盛りだくさんのトピック付きだが、話を聞いてみるとそれ以上に伝えたいこと、そして彼の確固とした思いが詰め込まれていた。
テレビのバラエティ番組で“日本映画界から超嫌われた”としくじり話を披露し話題を呼んだが、今回そんなきらいは一切なく、むしろ節々に感じたのは作り手としての信念、そして人間味。彼が今作、そしてものづくりを通して表現するもの、それは……。
――『ラスト・ナイツ』は、紀里谷さんがその脚本に惚れ込みスタートしたという話ですが。
「今は何が重要なのか、わからなくなっている時代だと思うんです。あらゆる人が目先のことを追いかけている。それは世の中で起きていることや仕事、恋人のことだったり。それらに追われるがあまり、自分にとって何が大切なのか、誰が大切なのかさえもわからなくなっていると思うんですよね。今回の脚本は、そこを見つめ直すことができる。お金や名声、地位、全てを失ってみて、そのときにわかるものがある、そんなテーマに惹かれましたね」
――それは、紀里谷さんの考え方や人生観に近い?
「そうかもしれない。最後に残るものは何か、それは形あるものは全く必要ないってことにみんな気付くと思うんです。最終的には、誰かのことが好き、愛おしい、守りたい、そういったことに尽きるわけで。僕にとってはそれが重要で、そのためだったら命を失ってもいい、常にそう思っていますけど」
――紀里谷さんの中にはすでにそういったものがある? 今死んでもいいと言うような。
「5秒後に死んでも問題ない……いや、やっぱり11月14日までは生きていたいかな、この映画の公開日(笑)。でも、僕は何度か死にそうになってそのとき自問自答したけど、そのときも死んでもいいやって思いましたね。ただ、親に申し訳ない、その一点だけで。それは、僕の中に親に対する強い思いがあったからで、それ以外は全く(死んでも)OK。そもそも、僕は目に見えるもの、形があるもの、触れるものは信じてないし」
――それで映画が作れるものなんですか?
「映画というのは映像や音が重要なのではなく、そこから持って帰る、受け取ってもらうものが重要なんですよ。だからCGや役者が重要なわけじゃない。ただ、それも形がないもので、面白かった、切なかったとか、そういった感情で僕はそこしか信じてない」
――それはかなり極端な話でもありますよね。
「例えば、女性は彼氏が欲しい、結婚したいと言うけど、そこに求めるのは安心だったり、それこそ楽しいというような感情を求めているだけ。相手の形を愛しているのではなく、僕は中にあるものを愛しているんじゃないかって思うんですよ。それは年収や地位だったり、そういうものが今の時代あまりにも前に出過ぎている。特に先進国はね。本当はそうじゃないと思うわけです。本当に愛している人が全てを失ったとき、あなたはその人のことをどう思いますか、ということですね」
――今作は現実味があるのに現実とは遠い、そんな感覚がしたのですが。
「僕的には、現実社会もけっきょく夢みたいなもの、そもそもリアルじゃないんですよ。世界はありとあらゆる形になり得る。なぜなら夢だから」
――でも、リアルじゃないということは、撮影にあたっては何をもってよしとするんですか?
「それはこちらに来る感覚、感情ですよね。そこしか信じない。今回、(本作の撮影現場で)モーガン・フリーマンに“リッスン”って言われたけど、そういうことなんですよ。何かが伝わるか伝わらないか。監督をしていても、モニター越しに何か伝わってこなければOKは出せない。テクニカルな部分は、素晴らしいスタッフに囲まれているから後でどうにでもなるし。そして、僕はそれがお客さんに伝わると信じてます」
――それはモニター越しでも伝わってくるものなんですね。
「カメラって実は正直なもので、肉眼で見るよりもレンズを通した方がその人がわかる、僕はそう思いますね。あえて肉眼で見えるものとは違うようにしている部分もあるけど、ある種自分が信じていない形を、形として落とし込んでいる、映画作りってそんな作業なんですよ」
――それはつまり、全てを信じていないからこそ、信じられるものを作るということ?
「そうでもあるし、そうじゃない。例えば、山を見てキレイだなって思うけど、その感覚は誰もわからないわけですよ。でもその感覚が重要で、僕は山の撮影をするにしてもキレイだなって思えるまで待つ。それは役者さんの芝居を撮っていても同じで、感情がわからないとそこまで待ちますね」
――そのためには、様々な手段でその方向に持っていくこともある?
「もちろん。みんな現実世界でもお芝居をしていると思うんですよ。その芝居をなくしていく作業が映画や写真の世界だと思う。僕にとってはその方がリアルだと思うし。芝居をしているんだけど、芝居じゃないことをするというか」
――芝居の中で垣間見える、芝居じゃない部分?
「写真撮影の際には対象と会話をしながら撮るわけだけど、そこで僕は芝居をしているということを削ぎ落としていく。そして、丸裸になったところでシャッターを切る。映画も同じことなんですよ。もちろん芝居をする中で、演じるキャラクターになっているわけだけど、そこでその人本人が出て来ることもあるし、そのキャラクターそのものが出てくることもある。僕はそこを追求しているんですよね。それは恋愛も同じことだと思ってて、初めてデートするときはみんな芝居しているわけですよ。お互い良いように見せたいから。そこからある種の嘘が始まる。それはキレイな嘘でもあるんだけど、最後まで突き通すことは不可能なんです。そして、その先に真実がある。僕は人との関係性もそこしか興味がない。相手の醜いところやダメなところまで含めて見る。それでいいんじゃないかと思いますね。以前なら、形としてキレイに加工していたけど、今はそれが撮れれば絶対に人にリーチできる、繋がるっていう信念がありますね」
――では、紀里谷さんなりの今作の見所は?
「作り手からすると、最初から最後まで見てほしいけど、やっぱり何が大切なのか、それをちょっとでも感じてもらえたら。映画館を出た後にお母さんに電話しようとか、彼氏に会おうとか、そういう感覚に陥ってほしいかな。“ほしい”って言っちゃうと僭越なんだけど、やっぱり僕らは何かを届けようと思って作ってますし」
――紀里谷さんの作品、これまでの三作を見る限り、日本の古き良き物語を大事にしているのかなと思ったんですが。
「それは、全世界で大事にされているものだと思いますね。よく侍魂、侍の心とか言うけど、その本質は何なのかと言えば、僕は愛、人のことを思うってことだと思うんですよ。日本人が好きな“おもてなし”という言葉も他人のことを思うことだし。そして、そこには自分がいない、つまりエゴがない、すなわち愛なんですよ。では、それが海外にないかと言えばあるし。キリストなんて水をワインに変えておもてなしする、超思いやりのある人ですからね(笑)。だから、これが日本的なのかと言えば、それは日本人が見るからそうなるだけ。イランの人が見たら、イラン的だねって言ってくれるかもしれない、でもそれが僕には重要なんですよ」
――全ては愛だと。
「国という分別がされている今、みんながこれは自分の話だって思えたらきっと通じ合える。それが重要で、そうでなかったらモーガン(フリーマン)やクライヴ(オーウェン)も出ようなんて思わないだろうし。そこには、形を超えた共感があったわけですよ。そして、世界はそこに行き着かない限りいつまでたっても争いごとは終わらない。それは『CASSHERN』のテーマでもあったんだけど、僕らはそこでしか繋がれない。いつまでたっても国同士、思想の違い……例えば宗教や主義、経済という形の話になってしまっていて、それだと争いは終わらないと僕は思う。そもそも、僕らはそうじゃなかったのに。子どものころはそんなふうに物事を見ていなかったわけで。なぜそうなってしまったのか、という話ですよね」
――それが今作で一番伝えたいことだと。
「伝えるというか、その方がよくないですか、ということ。でも、それはありとあらゆる映画監督やミュージシャン、作家、芸術家と呼ばれる人たちが、手を替え品を替え言っていることで、世の中の芸術と呼ばれるものの90%以上はそうじゃないかなと思うんですよ。僕もその一端、多くの人たちのうちの1人でしかない」
――それでもなかなか世界は変わらないわけですね。
「それは、情報と知識に犯されちゃっているから。大切なのは感情なんですよ。みんな、人のことを好きになる、好きになってほしいというのが大前提としてあって、そのためにオシャレしたり、ダイエットしたりする。そんな極めて曖昧な感情のために右往左往しながら情報や知識を集めているだけなんです。純粋に人が好きになって、その人も好きになってくれたら何も必要ないわけだし。僕が言う情報や知識というのは、地位や名声、ファッション、(銀行口座の)残高、乗っている車とか、そういうことも含めてなんですけどね」
©2015 Luka Productions
新作『ラスト・ナイツ』について監督:紀里谷和明が話すなか、とりわけ印象的だったこの言葉。
2004年『CASSHERN』で映画監督デビューし、2009年には『GOEMON』を発表。その斬新な作風で世界中を魅了した彼の最新作『ラスト・ナイツ』が11月14日(土)に公開となる。今作は彼にとって初のハリウッド作品となり、モーガン・フリーマン、クライヴ・オーウェンといった名優が出演するなど、盛りだくさんのトピック付きだが、話を聞いてみるとそれ以上に伝えたいこと、そして彼の確固とした思いが詰め込まれていた。
テレビのバラエティ番組で“日本映画界から超嫌われた”としくじり話を披露し話題を呼んだが、今回そんなきらいは一切なく、むしろ節々に感じたのは作り手としての信念、そして人間味。彼が今作、そしてものづくりを通して表現するもの、それは……。
――『ラスト・ナイツ』は、紀里谷さんがその脚本に惚れ込みスタートしたという話ですが。
「今は何が重要なのか、わからなくなっている時代だと思うんです。あらゆる人が目先のことを追いかけている。それは世の中で起きていることや仕事、恋人のことだったり。それらに追われるがあまり、自分にとって何が大切なのか、誰が大切なのかさえもわからなくなっていると思うんですよね。今回の脚本は、そこを見つめ直すことができる。お金や名声、地位、全てを失ってみて、そのときにわかるものがある、そんなテーマに惹かれましたね」
――それは、紀里谷さんの考え方や人生観に近い?
「そうかもしれない。最後に残るものは何か、それは形あるものは全く必要ないってことにみんな気付くと思うんです。最終的には、誰かのことが好き、愛おしい、守りたい、そういったことに尽きるわけで。僕にとってはそれが重要で、そのためだったら命を失ってもいい、常にそう思っていますけど」
――紀里谷さんの中にはすでにそういったものがある? 今死んでもいいと言うような。
「5秒後に死んでも問題ない……いや、やっぱり11月14日までは生きていたいかな、この映画の公開日(笑)。でも、僕は何度か死にそうになってそのとき自問自答したけど、そのときも死んでもいいやって思いましたね。ただ、親に申し訳ない、その一点だけで。それは、僕の中に親に対する強い思いがあったからで、それ以外は全く(死んでも)OK。そもそも、僕は目に見えるもの、形があるもの、触れるものは信じてないし」
――それで映画が作れるものなんですか?
「映画というのは映像や音が重要なのではなく、そこから持って帰る、受け取ってもらうものが重要なんですよ。だからCGや役者が重要なわけじゃない。ただ、それも形がないもので、面白かった、切なかったとか、そういった感情で僕はそこしか信じてない」
――それはかなり極端な話でもありますよね。
「例えば、女性は彼氏が欲しい、結婚したいと言うけど、そこに求めるのは安心だったり、それこそ楽しいというような感情を求めているだけ。相手の形を愛しているのではなく、僕は中にあるものを愛しているんじゃないかって思うんですよ。それは年収や地位だったり、そういうものが今の時代あまりにも前に出過ぎている。特に先進国はね。本当はそうじゃないと思うわけです。本当に愛している人が全てを失ったとき、あなたはその人のことをどう思いますか、ということですね」
――今作は現実味があるのに現実とは遠い、そんな感覚がしたのですが。
「僕的には、現実社会もけっきょく夢みたいなもの、そもそもリアルじゃないんですよ。世界はありとあらゆる形になり得る。なぜなら夢だから」
――でも、リアルじゃないということは、撮影にあたっては何をもってよしとするんですか?
「それはこちらに来る感覚、感情ですよね。そこしか信じない。今回、(本作の撮影現場で)モーガン・フリーマンに“リッスン”って言われたけど、そういうことなんですよ。何かが伝わるか伝わらないか。監督をしていても、モニター越しに何か伝わってこなければOKは出せない。テクニカルな部分は、素晴らしいスタッフに囲まれているから後でどうにでもなるし。そして、僕はそれがお客さんに伝わると信じてます」
――それはモニター越しでも伝わってくるものなんですね。
「カメラって実は正直なもので、肉眼で見るよりもレンズを通した方がその人がわかる、僕はそう思いますね。あえて肉眼で見えるものとは違うようにしている部分もあるけど、ある種自分が信じていない形を、形として落とし込んでいる、映画作りってそんな作業なんですよ」
――それはつまり、全てを信じていないからこそ、信じられるものを作るということ?
「そうでもあるし、そうじゃない。例えば、山を見てキレイだなって思うけど、その感覚は誰もわからないわけですよ。でもその感覚が重要で、僕は山の撮影をするにしてもキレイだなって思えるまで待つ。それは役者さんの芝居を撮っていても同じで、感情がわからないとそこまで待ちますね」
――そのためには、様々な手段でその方向に持っていくこともある?
「もちろん。みんな現実世界でもお芝居をしていると思うんですよ。その芝居をなくしていく作業が映画や写真の世界だと思う。僕にとってはその方がリアルだと思うし。芝居をしているんだけど、芝居じゃないことをするというか」
――芝居の中で垣間見える、芝居じゃない部分?
「写真撮影の際には対象と会話をしながら撮るわけだけど、そこで僕は芝居をしているということを削ぎ落としていく。そして、丸裸になったところでシャッターを切る。映画も同じことなんですよ。もちろん芝居をする中で、演じるキャラクターになっているわけだけど、そこでその人本人が出て来ることもあるし、そのキャラクターそのものが出てくることもある。僕はそこを追求しているんですよね。それは恋愛も同じことだと思ってて、初めてデートするときはみんな芝居しているわけですよ。お互い良いように見せたいから。そこからある種の嘘が始まる。それはキレイな嘘でもあるんだけど、最後まで突き通すことは不可能なんです。そして、その先に真実がある。僕は人との関係性もそこしか興味がない。相手の醜いところやダメなところまで含めて見る。それでいいんじゃないかと思いますね。以前なら、形としてキレイに加工していたけど、今はそれが撮れれば絶対に人にリーチできる、繋がるっていう信念がありますね」
――では、紀里谷さんなりの今作の見所は?
「作り手からすると、最初から最後まで見てほしいけど、やっぱり何が大切なのか、それをちょっとでも感じてもらえたら。映画館を出た後にお母さんに電話しようとか、彼氏に会おうとか、そういう感覚に陥ってほしいかな。“ほしい”って言っちゃうと僭越なんだけど、やっぱり僕らは何かを届けようと思って作ってますし」
――紀里谷さんの作品、これまでの三作を見る限り、日本の古き良き物語を大事にしているのかなと思ったんですが。
「それは、全世界で大事にされているものだと思いますね。よく侍魂、侍の心とか言うけど、その本質は何なのかと言えば、僕は愛、人のことを思うってことだと思うんですよ。日本人が好きな“おもてなし”という言葉も他人のことを思うことだし。そして、そこには自分がいない、つまりエゴがない、すなわち愛なんですよ。では、それが海外にないかと言えばあるし。キリストなんて水をワインに変えておもてなしする、超思いやりのある人ですからね(笑)。だから、これが日本的なのかと言えば、それは日本人が見るからそうなるだけ。イランの人が見たら、イラン的だねって言ってくれるかもしれない、でもそれが僕には重要なんですよ」
――全ては愛だと。
「国という分別がされている今、みんながこれは自分の話だって思えたらきっと通じ合える。それが重要で、そうでなかったらモーガン(フリーマン)やクライヴ(オーウェン)も出ようなんて思わないだろうし。そこには、形を超えた共感があったわけですよ。そして、世界はそこに行き着かない限りいつまでたっても争いごとは終わらない。それは『CASSHERN』のテーマでもあったんだけど、僕らはそこでしか繋がれない。いつまでたっても国同士、思想の違い……例えば宗教や主義、経済という形の話になってしまっていて、それだと争いは終わらないと僕は思う。そもそも、僕らはそうじゃなかったのに。子どものころはそんなふうに物事を見ていなかったわけで。なぜそうなってしまったのか、という話ですよね」
――それが今作で一番伝えたいことだと。
「伝えるというか、その方がよくないですか、ということ。でも、それはありとあらゆる映画監督やミュージシャン、作家、芸術家と呼ばれる人たちが、手を替え品を替え言っていることで、世の中の芸術と呼ばれるものの90%以上はそうじゃないかなと思うんですよ。僕もその一端、多くの人たちのうちの1人でしかない」
――それでもなかなか世界は変わらないわけですね。
「それは、情報と知識に犯されちゃっているから。大切なのは感情なんですよ。みんな、人のことを好きになる、好きになってほしいというのが大前提としてあって、そのためにオシャレしたり、ダイエットしたりする。そんな極めて曖昧な感情のために右往左往しながら情報や知識を集めているだけなんです。純粋に人が好きになって、その人も好きになってくれたら何も必要ないわけだし。僕が言う情報や知識というのは、地位や名声、ファッション、(銀行口座の)残高、乗っている車とか、そういうことも含めてなんですけどね」
©2015 Luka Productions