Infoseek 楽天

昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー列伝 作曲家・吉田正 戦後の日本歌謡を代表する一人「迷ったら自分の思った通りの道に行きなさい」新人の三田明へ助言

zakzak by夕刊フジ 2024年7月17日 15時30分

戦後の日本歌謡史を代表する作曲家の一人である吉田正さんは、股旅ものから青春歌謡、リズム、ムード歌謡と幅広く、曲風は吉田メロディーと称された。本人いわく、カントリー、ハワイアンがはやればそれを聞き、自分なりに演奏したそうだ。戦中戦後も人知れず研鑽していた。

敗戦でシベリアに抑留される。そのとき仲間を励ますために作ったのが1948年、竹山逸郎の「異国の丘」(増田幸治作詞、佐伯孝夫補作詞)だった。それを機にビクター専属作家になる。

57年のフランク永井「有楽町で逢いましょう」(佐伯孝夫作詞)はそごうのキャッチフレーズだった。キャンペーンソングになり、小説、映画にもなっている。

59年の松尾和子&和田弘とマヒナスターズが歌った「誰よりも君を愛す」(川内康範作詞)で第2回日本レコード大賞を受賞。

勢いは止まらず、60年の橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」(佐伯孝夫作詞)は股旅もの。そして、62年の吉永小百合「いつでも夢を」(同)で再びレコ大を制した。

日本は東京オリンピックを控え、まさに高度成長期右上がりの時代だった。62年のオーディション番組「ホイホイ・ミュージック・スクール」(日本テレビ系)に応募して、吉田正にスカウトされたのが三田明だ。

その頃、日本コロムビアは舟木一夫の青春ものがヒットしていた。当時はレコード会社間で競争があり、ビクターは吉田正作品を用意して歌手を探していた状況だった。

三田はその後、恩師である吉田さんについて、テレビ番組でこう語っている。

「デビューの決まった新人を心配してくださったのか、『三田君、人生はマラソン選手みたいなもの。山あり谷あり、時には平坦な道もあるけど、分かれ道もある。迷ったら自分の思った通りの道に行きなさい。最後のゴールは自分で決めればいい』とおっしゃっていた」と忘れられない恩師の言葉を明かした。

ちなみに三田は、デビュー「美しい十代」(宮川哲夫作詞)から70年までに出したシングル盤は44作連続で吉田さんの作曲だった。

ちなみに作詞家の星野哲郎さんは、吉田さんと京都旅行に行った際、さまざまな話をした。「いい詩にはいい曲がつく」とよく言われたと自著に記している。98年に国民栄誉賞を受章した。

■吉田正(よしだ・ただし) 作曲家。1921年1月20日生まれ、98年6月10日死去。77歳。

■篠木雅博(しのき・まさひろ) 株式会社「パイプライン」顧問、日本ゴスペル音楽協会顧問。1950年生まれ。東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)で制作ディレクターとして布施明、五木ひろしらを手がけ、椎名林檎らのデビューを仕掛けた。2010年に徳間ジャパンコミュニケーションズ代表取締役社長に就任し、Perfumeらを輩出。17年に退職し現職。

この記事の関連ニュース