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海老原清治のNO GOLF NO LIFE 1969年10月の日本プロゴルフ協会プロテスト、残り3ホール1アンダー死守し合格 物が豊富な時代ではなかった当時

zakzak by夕刊フジ 2024年10月9日 11時0分

昭和44(1969)年10月の日本プロゴルフ協会(JPGA)プロテスト。残り9ホールを1アンダーの35で回ればプロになれる。後輩研修生たちの受験枠を空けるためにも合格するしかない! 強い思いを持って臨んだバックナインでした。

気持ちだけではなく、練習ラウンドで立てた明確なゲームプランどおりにプレーすれば合格できるという自信もありました。15番パー4は、どんなに会心のショットを2回続けてもグリーンを捕らえられない最難関ホールであり、ボギーを覚悟するしかありません。でも、2つあるパー5で着実にバーディーを奪えば、1アンダーで回れると考えていたからです。

10、11番でパーセーブに成功し、12番パー4では幸運にもバーディーが取れました。13番パー5でバーディーを奪えなかったのは想定外でしたが、14番パー3ではバーディーパットが入ってくれました。

『よしっ、これで貯金が2つになったぞ』と思いながら迎えた最難関の15番。2打目はグリーンに届かず、ボギーとしたものの、想定内だったことで動揺はまったくありませんでした。むしろ、「残り3ホール、1アンダーを死守してみせる」と奮い立ったのです。

16、17番をパーでしのぎ、迎えた最終18番パー4ではティーショットを右に曲げました。それでも、3番ウッドでグリーンに近づけて、3打目はカップ左2メートルに寄せたのです。決めればハーフスコア35の1アンダーで合格できます。

パーパットのラインを読みながら「どうして(3打目で)スライスラインにつけたんだ」と心の中でボヤいていました。フックラインが得意だったからです。

それでも何とか1パットで決めることができました。ホールアウトし、クラブハウスに向かおうとしたとき、声を掛けられたのです。「海老原、どうだった?」。声の主は兄弟子の松井功さん(第9代JPGA会長)でした。「ピッタリです」と僕が応えると、「今のパットを沈めてか?」と驚いた顔をしたのを昨日のことのように覚えています。

当時は物が豊富な時代ではありませんでした。ゴルフボールは研修会会場で1ダースを買うのが精いっぱいでしたし、ゴルフクラブは師匠の林由郎モデルを月賦で何とか買ったほど。それでもプロゴルファーになれたことに感謝したのでした。 (構成・フリーライター伝昌夫)

■海老原清治(えびはら・せいじ) 1949年4月2日生まれ、千葉県出身。中学卒業後に我孫子ゴルフ倶楽部に入り、20歳で日本プロゴルフ協会プロテストに合格。85年の中日クラウンズでツアー初優勝。2000年から欧州シニアツアーに本格参戦し、02年に3勝を挙げて賞金王。20年、日本プロゴルフ殿堂入り。174センチ、74キロ、血液型A。我孫子ゴルフ倶楽部所属。

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