★絶品必食編
裏口のようなその店の入り口を開けるとレストランというよりもどこかの厨房にお邪魔したかのような錯覚にとらわれる。
数席だけのL字型カウンターからは、コックピットのような厨房の全景がよく見える。あのサカエヤが手当てした十勝若牛の分厚いステーキがスキレットで焼かれ、バットの上で休んでいる様もすべて丸見えだ。
10月末、東京・日本橋本町に軒を掲げた「ムレーナ」。飾り気のないイタリアの郷土料理を提供する新店で、早い時間は誰にも懐かしさを感じさせる、素朴な煮込みや手打ちパスタが盛り込まれたコース料理、深い時間はワイン一杯と料理一品からのアラカルトも楽しめる。
オーナーシェフは溝口真哉さん。10代半ばで調理の道へと進み、国内では腕ききのシェフに鍛えられ、イタリアを巡り歩いてはしみじみとした郷土の味に薫陶を受けた。帰国後は当時サカエヤに併設されていたレストラン「セジール」の厨房を任され、全国から押し寄せる肉好きの舌と胃袋を喜ばせた。
そしてこの秋、満を持して日本橋に自分の店を出した。冷蔵庫から取り出した巨大な骨付きの肉塊からはほのかにチーズのような熟成香が漂う。
そこから分厚く切り出した肉はよく締まっていて、見事なまでのあずき色。うま味の詰まった肉の見本のような質感だ。断面からは点描を打ったかのような控えめなサシが覗く。
熱せられたスキレットにシェフが肉塊を立てた瞬間、脂の灼(や)けるジュワァアッという音が耳に届く。少し遅れて肉の灼ける音と香りがカウンターに漂ってくる。いい肉特有の甘やかで香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、胃袋を刺激する。
しばらくして目の前に供された肉は生き生きとした躍動感に満ちている。サカエヤの切れすぎるステーキナイフが滑らかな断面を生み、美しい舌触りの肉片は歯切れよく、噛むほどに伸びやかな味わいが膨らむ。ああ、この瞬間よ永遠なれ! と歯噛みしながら飲み込んだ後の余韻までもが旨いのだ。
わかりにくい入り口に飾り気のないしつらえ。イタリアのラジオをBGMに、丸見えの厨房で飄々と躍動するシェフの姿。この厨房料理店のライブキッチンは、カウンターに座る客の五感すべてを刺激し、歓喜させる。
■松浦達也(まつうら・たつや) 編集者/ライター。レシピから外食まで肉事情に詳しい。新著「教養としての『焼肉』大全」(扶桑社刊)発売中。「東京最高のレストラン」(ぴあ刊)審査員。