阪神・淡路大震災から30年
阪神・淡路大震災から17日で30年になります。1995年の発災当時、私は中学1年生でした。まだ、ネットで情報を得るなど考えもしない時代です。朝、ニュースで見た情報が、夕方には想像をはるかに超える惨状となっていました。とはいえ、被災地から遠い神奈川県横須賀市に暮らす身には、実感がわかなかったのが正直なところです。
それが身近に感じた最初の体験は予備校の先生でした。数学のK先生は神戸市長田区の出身でした。実家の漬物屋さんはJR新長田駅からすぐ近くの商店街にあり、家族含めて無事だったものの店舗は焼失してしまったのです。当時、K先生が夜通し車を走らせて帰った故郷は変わり果て、呆然(ぼうぜん)としたそうです。
先生はその後、家業を継ぐために帰郷しました。私は大学に進学し、就職活動で大阪の放送局の試験を受けた際、久しぶりに再会しました。
震災から7年がたとうとしていた冬の夕刻、新長田駅に降り立つと「街が暗い」と感じたのを覚えています。当時は震災復興街区の整備途上でした。新たな市街地の建設が進むなかで、一時的に更地や建設中の建物が増えた時期ですから、街の灯りが少なかったのです。
今なら、さまざまな被災地取材を通して、一時的に街ががらんどうになってしまっても「復興プロセス特有の事情」を想像することができます。ただ、当時はそんなことを考えもせず、「復興はまだまだ」と思ってしまいました。
しかし、K先生に連れて行ってもらった地元のお寿司屋さんの大将や常連さんと話をすると、「あの時は大変やったんや」と言いながら、「復興もずいぶん進んだ」と笑っていました。復興のプロセスを線で見てきた地元の人たちと、点でしか捉えなかった自分。その対照的な感覚に自分を恥じました。
被災地をその時点の「点」で捉えれば、「復興は道半ば」と表現することは容易ですが、「線」で継続して見る視座が大切なのです。今思えば、これが災害取材の原体験だったのかもしれません。
その後、ニッポン放送でアナウンサーとなり、東日本大震災や熊本地震、北海道胆振東部地震、昨年の能登半島地震など、さまざまな被災地で取材をしてきました。どの被災地にも、今と未来を線で捉え、そこへ向けて何とか地元を再構築しようする前向きな人々がいました。その人たちの目線の先でロールモデルとなったのが、阪神・淡路大震災から生まれ変わる神戸の街だったのです。
「神戸の人たちも頑張ってたんだから」
この言葉を何度も聞きました。
今年の1月17日、私が担当する番組「OK! Cozy up!」(平日朝6時~)では、発災から3日後に被災地に入った森田解説委員が「阪神淡路大震災1・17のつどい」が行われる神戸市中央区の東遊園地で現地取材します。市民の方々の声や、30年たった復興の様子などをリポートします。ぜひ、お聴きください!
■飯田浩司(いいだ・こうじ) 1981年、神奈川県生まれ。2004年、横浜国立大学卒業後、ニッポン放送にアナウンサーとして入社。ニュース番組のパーソナリティーとして、政治・経済から国際問題まで取材する。現在、「飯田浩司のOK!Cozy up!」(月~金曜朝6―8時)を担当。趣味は野球観戦(阪神ファン)、鉄道・飛行機鑑賞、競馬、読書など。