新年が明けると最初に始まるタイトル戦が、ALSOK杯王将戦である。
王将戦は1950年に、毎日新聞社主催で発足し、翌年タイトル戦となった。
毎日が王将戦を始めたのは、それまで主催していた名人戦を朝日新聞社に奪われたからだった。
当時は新聞の販促に必要な囲碁将棋欄だったので、毎日新聞社として、名人をも貶(おとし)めるような棋戦ならやろうということで、三番手直り(3勝差が開いた時点でタイトルの勝敗が決着。次は香落ちとなる)という過激な棋戦ができたのだった。
当時の升田幸三八段が木村義雄名人に香を引くはずだったが、対局を放棄した陣屋事件。また升田が大山康晴名人相手に、香を引いて勝ったことなど、初期の王将戦には後世まで残るエピソードが多い。
2023年までは静岡県の掛川市が、12年連続で第1局を誘致していた。
ところが藤井聡太七冠の人気で、昨年は掛川が第6局に下がったところ、藤井の4連勝で、掛川には来なかった。昨年の結果を踏まえて今年は第1局となった。
挑戦者は永瀬拓矢九段。2人のタイトル戦は4回目だが、2日制のタイトル戦は初めてだ。
対局場は『掛川城 二の丸茶室』で、頭上に城の天守閣がそびえている。
振り駒で先手番を得た永瀬は、研究してきたであろう相掛かり戦へと。
そして序盤早々から歩得をし、その歩を生かして端攻めからペースを握った。一日目の終わりの封じ手付近では、永瀬の左右の桂が両方とも跳ね出す調子の良さで、明らかに永瀬ペースを思わせた。
しかし藤井もタイトル保持者らしく、決め手を与えない受けで、一瞬のスキを突いて反撃に出る。
問題はそこからだった。
私は中盤と終盤の間に「奥」という場所があると考えている。この奥は理論的に読み切れる部分ではなく、強い人は相手を突き放せるし、また悪くても相手にピッタリついて行ける。
七冠時代の羽生善治九段、そして今の藤井には明らかにこの奥の強さがある。
永瀬も当然強いのだが、藤井相手にこの奥のところで間違えて、逆転を許してしまった。この負け方は、終わった後でもどこが悪かったか、本人も分からないことが多い。
第2局は永瀬の後手番で、かなり大変だが、藤井一強を一番許せない挑戦者が、どういう戦いを見せるか楽しみだ。
■青野照市(あおの・てるいち) 1953年1月31日、静岡県焼津市生まれ。68年に4級で故廣津久雄九段門下に入る。74年に四段に昇段し、プロ棋士となる。94年に九段。A級通算11期。これまでに勝率第一位賞や連勝賞、升田幸三賞を獲得。将棋の国際普及にも努め、2011年に外務大臣表彰を受けた。13年から17年2月まで、日本将棋連盟専務理事を務めた。