1984年。関東プロゴルフ選手権の出場資格がなく、同週開催の新韓東海オープンに出場するため韓国へ渡りました。
暑い8月のことでした。それでも体は思いのほかよく動き、最終日には5番ホールから4連続バーディーを決め、通算279ストロークでフィニッシュ。思ってもいなかった海外初優勝を挙げたのです。
優勝スコアが韓国ゴルフ史上初めて280ストローク以下という記録を達成したことには僕も驚きました。試合に出られただけでもうれしかったのに、そのうえ、まさかの優勝だなんて―。副賞の冷蔵庫は、持って帰れないので寄付させていただきました。
帰国後、太平洋クラブマスターズ2日目には18番ホールでのイーグル奪取もあって66をマークし、首位タイまで浮上しました。優勝はできませんでしたが、なんとか初シード権を獲得することができたのです。
もちろん、次の目標は日本ツアーでの初優勝です。意気込んで臨んだ85年の開幕戦「静岡オープン」のことでした。18番ホールのティーショットを曲げ、ボールは林の中へ。木の根元にとまったボールを打ち出そうとしたら、あろうことか木の根を強打してしまったのです。
鈍い音に続いて激痛が体を走り抜けました。左手首を脱臼してしまいました。石膏で固めた左手首と96位タイで予選落ちというショックを持ち帰るだけの一戦と化したのです。
クラブを握れない日々が続きました。試合に出たい。いつになったらゴルフを再開できるのか。通院するたびに担当医に尋ねました。
そして脱臼してから3週間後のこと。何度も許可を求める僕に、「練習してからにしなさい」と担当医は仕方なさそうにクラブを持つことを許してくれました。
「練習はしません。だって1ラウンドのショット数は多くて40回ほど。パット数36でも75前後のスコアは出せますまし、左手首への負担を抑えられますから」と僕は答え、強行出場を決断したのです。
左手脱臼のハンデは大きかっです。大きすぎました。復帰1戦目のポカリスエットオープンは80、79の通算17オーバー、111位。2戦目のブリヂストン阿蘇オープンは同7オーバーで84位タイ。ダンロップ国際オープンは同9オーバーの113位タイと予選落ちが続いたのです。
そんな日々の先にツアー初優勝の「奇跡」が待ち受けているとは思ってもいませんでした。(構成・フリーライター伝昌夫)
■海老原清治(えびはら・せいじ) 1949年4月2日生まれ、千葉県出身。中学卒業後に我孫子ゴルフ倶楽部に入り、20歳で日本プロゴルフ協会プロテストに合格。85年の中日クラウンズでツアー初優勝。2000年から欧州シニアツアーに本格参戦し、02年に3勝を挙げて賞金王。20年、日本プロゴルフ殿堂入り。174センチ、74キロ、血液型A。我孫子ゴルフ倶楽部所属。