毎年この時期になると、26年前のアスファルトの照り返しと草いきれを思い出す。朝日新聞に入社2年の駆け出し記者だった筆者は、滋賀県の大津支局で勤務していた。
1998年7月25日、和歌山市園部地区で夏祭りのカレーを食べた住民ら4人が死亡する事件が起きた。発生翌日から応援のため現地入りし、猛暑の中、住民らに聞き込み取材を始めた。
「あの家はシロアリ駆除業をしており、ヒ素を扱っていたから事件に関与したかもしれない」
こう住民が指摘したのが、殺人罪などで死刑が確定した林真須美死刑囚の一家だった。早速、林家を訪ねると、サングラスをかけた男性が応対した。夫の健治氏だった。
「何やあんた。わしが犯人やと思ってるんか」
齢24の筆者は無謀にも次のように即答した。
「はい。だから率直なお話を伺いたいと思ってきました」
健治氏は、筆者が渡した名刺に目を落とした。それまでの険しい表情が緩んだ。
「何や、あんたもケンジか。ケンジに悪い奴はおらん。まあ上がってや」
これが林家との最初の出会いだった。その後も連日のように訪ね、事件当日の状況や一家の行動などを取材した。健治氏の紆余(うよ)曲折の半生や当意即妙な語り口に魅了された。4人の子どももなつき、長男とは釣りにも行った。取材陣が自宅を取り囲む異常事態に、ストレスを和らげられればと思っていた。
だが、林一家への親近感を打ち消すように、和歌山県警捜査本部を取材している記者からは容疑を深める取材メモが上がってきた。
「多額の保険金を手に入れていた」「排水溝から薬物が検出された」…。
記者である自分と、林一家と親しくなった自分の葛藤に苦しんだ。
決定打となったのが、8月25日付の朝日新聞の「事件前にもヒ素中毒 地区民家で飲食の2人 和歌山毒物混入」というスクープだった。
林家に出入りしていた知人2人の毛髪などからヒ素が検出されたという県警の鑑識結果を報じた。報道後、会社から林一家との接触を禁じられた。まもなく林夫妻は保険金詐欺容疑などで逮捕された。
その後、一家とは音信不通だったが、長男とSNSでつながることができた。
2022年7月、筆者は久しぶりに和歌山を訪れ、健治氏と長男と再会した。
健治氏は病で車椅子を余儀なくされていたが、頭の切れは鋭く、ユーモアにあふれていた。そして、事件についてこう語った。
「わしは今でも真須美がカレーにオモ(ヒ素)を入れていないと思っとるんや」
健治氏は婚姻関係を維持しており、妻と再び暮らせることを願っているという。
当時のスクープの通り、健治氏の知人がヒ素中毒になったことや、一部の保険金詐欺は、夫妻が容疑を認めている。カレー事件については、最高裁判所が2009年、殺人罪などで真須美被告に死刑判決を言い渡している。
しかし、直接証拠も自白もない。被告が黙秘を貫いたため、解明されていない事実も残されている。特に、動機が明らかになっていないことは特筆すべきだろう。
筆者が当時、取材班の一員として事件の真相に迫ったことに悔いはない。記者を辞めた今でも、事件には関心を抱き続けている。
3日公開「映画」で証言
その一歩として、3日公開される事件のドキュメンタリー映画『Mommy マミー 和歌山毒物カレー事件から26年目の挑戦』のインタビューに応じた。当時の取材記者として、そして林家と交友がある知人として、多くの人に見てほしいと願っている。 (キヤノングローバル戦略研究所主任研究員・峯村健司)