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昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー列伝 作詞家・木下龍太郎、人柄は目立たず静か、叙情歌は色あせない ご当地ソングはお手の物 水森かおりの「東尋坊」「鳥取砂丘」など

zakzak by夕刊フジ 2024年10月12日 15時0分

木下龍太郎さんは栃木県船生村(現塩谷町)出身で、くしくも作曲家、船村徹さんと同郷だ。高校生の頃、村で唯一の娯楽館のスピーカーから「別れの一本杉」(船村徹作曲)が流れた。「大したもんだな」と村中騒然となったそうだ。

木下さんは大いに触発され「俺もやっぱり東京に行こう」と決心する。東京の大学で小説らしきものを書いたが芽が出ず、作詞家に方向転換。郷土の先輩、船村先生の門をたたいた。「作詞家なんて大変だから止めとけ」と言われたが、粘った末にキングレコードのディレクターを紹介してもらった。

原稿を持ち込んでも突き返されることが多かったが、運よく「船村先生の盟友、高野公男さんの命日だから」という理由で1曲吹き込んでもらえることになった。石井千絵の「東京は噓っ八」(滝のぼる作曲)がデビュー曲になった。

10年後にキングレコードの専属となったが二足のわらじを履き通し、「作詞家で一本立ちしたのは数十年後だった」とインタビューに答えている。

船村さんを囲む会がいくつかあった。お弟子さんが集まる同門会、亡き作詞家の高野公男さんと表に出ないレコードB面の歌供養の会、レコード関係者との仲良しコンペなど。木下さんはほとんどに参加しながらも、いつも目立たぬように隅のほうにいて、誰かと話す様子を見たことがなかった。静かな居ずまいの方だった。

私は高校の修学旅行で九州を旅した際、最後にバスガイドさんが歌ってくれた「忘れな草をあなたに」(江口広司作曲)を聴いて、みんな目に涙をたたえたのを今でも覚えている。63年、コーラスグループ「ヴォーチェ・アンジェリカ」が歌い、当時の歌声喫茶でのリクエスト1位になった。65年に梓みちよ、71年に倍賞千恵子と菅原洋一が競作し、菅原は71、84年にNHK紅白歌合戦で歌唱している。多くの人に愛され、色あせない叙情歌だ。

木下さんの作品にはご当地ソングが多い。大の旅行好きで知られ、ご当地ソングはお手の物だったかもしれない。特に〝ご当地ソングの女王〟として知られる水森かおりでは2002年の「東尋坊」に始まり「鳥取砂丘」「五能線」「輪島朝市」などが続いた。 =おわり

■木下龍太郎(きのした・りゅうたろう) 1938年1月7日―2008年9月22日。70歳没。

■篠木雅博(しのき・まさひろ) 株式会社「パイプライン」顧問、日本ゴスペル音楽協会顧問。1950年生まれ。東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)で制作ディレクターとして布施明、五木ひろしらを手がけ、椎名林檎らのデビューを仕掛けた。2010年に徳間ジャパンコミュニケーションズ代表取締役社長に就任し、Perfumeらを輩出。17年に退職し現職。

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