11・17に引退試合
三沢光晴の最後の対戦相手だった齋藤彰俊が引退した。三沢がリング上で不慮の死を遂げた2009年6月13日から、斎藤は重い十字架を背負っている。これからも生涯、その重みから解放されることはないかもしれないが、一つの区切りがついたといえよう。
11・17愛知・名古屋大会の引退試合。三沢の緑のガウンを手に入場し、天を見上げて指さすポーズも披露した。「三沢さん、見ていてくれましたか」。齋藤の想いが伝わってきた。
この15年間の齋藤の生き様は見事だった。今でもさまざまな声が届く。誹謗中傷の類にも一つひとつ丁寧に返信した。誰よりも齋藤自身が自問自答する日々だったに違いない。あのバックドロップが危険すぎたのか。いや、それは違う。三沢は誰よりも受け身にたけていた。それまでに三沢の心身にはダメージが蓄積されていたのだ。たまたまあの一瞬が非情の運命の引き金を引いてしまった。
90年代に全日本プロレスで一世を風靡した四天王プロレスは壮絶を極めた。ライバルだった新日本プロレスの闘魂三銃士は「あれはヤバすぎる。俺たちは違うやり方でいくよ」と漏らしていた。ジャイアント馬場の死後、全日本プロレスの社長に就任したものの、元子夫人との確執が生じ独立。ノアを設立したが団体経営は大変だったはず。三沢の心身は限界に近づいていた。
三沢の最後の日本武道館大会となった09年5月6日。試合前の控室を訪れた。いつもなら「珍しいね。何しに来たの」と声を掛けてくるのに「お、久しぶりだね」と妙に優しい口調だった。いつも通りにたわいない会話を交わしたが、違和感に心がざわついたことを思い出す。
三沢は漢気あふれる親分気質だった。さりげない心配り、気配りには感心した。私の結婚式で「いつも見ています。みこすり半劇場」とあいさつし爆笑を呼び込んでいた。死後、齋藤に三沢からの手紙が届いたという。試合中に何かあったときを想定した内容で「君の責任ではない。そのまま頑張ってほしい」と、まさに齋藤の気持ちを慮った内容だった。
齋藤も勇気づけられた。死で償うことも考えたが、レスラーとして頑張り抜けたのも三沢からのメッセージが大きかった。三沢は自身の体調に不安を抱え最悪の事態を覚悟しながら、日々リングに向かっていたのだ。もとよりレスラーは命がけだが、ノアの選手、スタッフ、家族、出入りの業者…三沢は周囲の人たちの生活をそれこそ背負っていたのだ。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とは徳川家康の遺訓だが、齋藤は15年間、背負ってきた重荷をもう降ろしても良いのではないだろうか。齋藤の第二の人生も、天国にいる三沢がきっと優しく見守っている。 =敬称略 (プロレス解説者 柴田惣一)