今春、国民的人気番組「笑点」(日本テレビ系)の大喜利コーナーの新メンバーに抜擢され、8カ月が過ぎた。
「最初の4カ月は必死でしたが、初めての地方収録は盛岡市でした。それがまるで会社の研修旅行のようで、笑点メンバーに少し近づけたかなという感覚になりました」
2013年春に「笑点特大号」(BS日テレ)の若手大喜利に初めて出演したときは二ツ目で、志の吉だった。新たなスタートとなった「笑点」のオファーはどのように届いたのか。
「2022年で50歳になり、10年間お世話になった若手大喜利は卒業しようと思い、(特大号の)プロデューサーさんに相談。昨年6月でひと区切りと思っていました。ところが夏頃に『若手大喜利のことで』と呼ばれたんです」
日テレに出向くと会議室に通された。
「お偉方やプロデューサーさんが並ぶ重々しい中で『来年4月から(林家)木久扇師匠の席に晴の輔さんが座ってください』と言われて、本当に驚きました。『特大号』で超正統派の私が、爆笑王の木久扇師匠の後釜は100%ないと思っていたので、ボクですか? と聞き返したくらいでした」
当然、正式に発表されるまではしっかりと口止めされることに。
「担当から『もし漏れることがあったら、この話はなくなるかもしれません』と冗談ぽく笑顔で言われましたが、マジだと思いました」
誰にも言えないまま、真っ先に向かったのは大師匠の立川談志の墓前だった。
「家元(談志)が初代司会だった『笑点』に孫弟子の私がレギュラーになりますと報告。手を合わせる場所があるのは幸せであり、家元の命日(11月21日)と私の誕生日が同じで、干支も子年で一緒。何か運命的なものを感じました」
4月に入り、師匠の立川志の輔に報告。
「普段は声のトーンが低い師匠が報告した途端に『お~っ!』と高いトーンで。『それはすごいことだ』と大変喜んでくださいました」
神戸市で生まれるも、父親が転勤族のため各地を転々。幼い頃は野球少年で巨人軍の選手になるのが夢で、東京・白山に住んでいる頃に東京農業大学に入学した。
「4年間楽しかったと心からいえる大学生活を送るには、面白い人がいそうな落語研究会がいいと思ったんです。入ってみると、クセのある人ばかりでしたが、付き合ううちにみんなイイ味が出て今でも仲良しですよ」
入部して「落語とは何ぞや」を求め落語を聴きまくり3カ月。
「たまたま、渋谷の東邦生命ホールでやっていた志の輔独演会に行き、師匠の落語を見終わると席から立ち上がれないほどでした。登場人物が鮮明で立体的に見え、完全に江戸の世界に連れていかれたんです」
以降、卒業までの4年間、志の輔独演会に欠かさず通い続け「弟子入りしたい気持ちが1ミリも変わりませんでした」。
卒業後、志の輔に何度も弟子入り志願を続けると、熱意が伝わり入門を許された。
真打昇進への道は険しかった。
「4回開いた独演会を毎回満席にして最終回。師匠が見に来てくださって、最後に舞台で『真打に値します』と言ってもらえたのですが、『真打にする』じゃないんですね」
翌日、あいさつにいくと「何かがズレてる」と言われて追試験が待っていた。
「長野県飯田市であった師匠の独演会に自ら先乗りし、前座の次に『ねずみ』をやる許可をいただきました」
師匠目当ての客の前で弟子が大ネタをみせるというのは正直厳しい。
「ところがすごく温かいお客さまで、なぜかうまくいって、次に上がった師匠が『ねずみをやれと命じたのは私です。私の弟子が真打になった瞬間を見届けたと思っていただいて結構です』と言ってもらえたんです」
メンバーカラーの色紋付は鳥の子色(クリーム色)。
「52歳の新人。年齢を重ねるうちに失敗を恐れるようになる中、50代で新たなチャレンジができる幸せもかみしめています」
明るくまっすぐなキャラクターで新たな風を吹かせ溶け込み、存在感を示し始めている。
■立川晴の輔(たてかわ・はれのすけ) 落語家。落語立川流・立川志の輔一門。1972年11月21日生まれ、52歳。岡山県作陽高校、東京農業大学農学部卒業。97年、立川志の輔に入門し、志の吉を拝名。2003年、二ツ目に昇進。08年、「東西若手落語家コンペティション」グランドチャンピオン。13年、真打昇進、晴の輔に改名。現在、「笑点」(日本テレビ系)のほか、「晴の輔・めろんのかなフィルふぃ~る」(テレビ神奈川)、「週刊なるほど!ニッポン」(ニッポン放送ほか)に出演中。
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「立川晴の輔独演会vol.42~冬麗編~」は東京・新大久保のR'Sアートコート(25日、昼夜2公演)、千葉市民会館・小ホール(27日)。問い合わせはエムブルーム(042・785・4303)。
(ペン・高山和久/カメラ・斉藤佳憲)