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令和を変える!関西の発想力 「光る君へ」の〝新常識〟に誘われ京都・蘆山寺へ 時代の価値観に則した解釈がゆかりの地に新たな光

zakzak by夕刊フジ 2024年8月2日 11時0分

最近、よく耳にする「新常識」や「新事実」。多くは科学や医学の発展によるものですが、歴史にも時折、新事実が説かれ、新常識が生まれることがあります。

NHK大河ドラマ「光る君へ」もそのひとつ。なかでも、紫式部の娘が藤原道長の子と描かれたストーリーは、これまでの紫式部像を大きく塗り替えました。しかも、道長との関係は源氏物語の世界そのもの。これが真実なら、源氏物語が書き始められた背景も、「百人一首」や「紫式部日記」の解釈も変わりそうです。

そこで「光る君へ」の世界をベースに紫式部の面影を追ってみようと、京都に残る紫式部の邸宅跡「蘆山寺(ろざんじ)」を訪ねました。この寺院は平安中期、元三大師によって船岡山に創建された天台圓浄宗の本山ですが、元亀2(1571)年に紫式部の邸宅があった場所へ移設されました。境内には紫式部を偲ぶ「源氏庭」や歌碑があります。

また、京都御所に隣接しているため、中宮・顕子の女房となった紫式部が娘を育てながら日々、宮廷へ出勤した姿を偲ぶこともできます。

「紫式部日記」には、藤原道長が夜に彼女を訪ねたと思われる記述がありますが、この距離感なら気軽に行けたことでしょう。しかも娘の賢子が道長の子なら、彼が彼女の家を訪ねるのは当然です。しかし秘密の間柄だっただけに、頻繁に訪れることは難しかったに違いありません。そんな状況に紫式部はやきもきした、かもしれません。

だとすれば、百人一首57番の紫式部の和歌「めぐりあひて 見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月影」は別の解釈ができます。これまでは、久々に会った幼なじみに向けて詠んだ歌とされてきましたが、もしかしたら、道長の訪問に対して「久しぶりの逢瀬なのに、あなたは、雲隠れする月のように、もう帰ってしまったのね」と詠んだ、切ない歌だったかもしれません。

さらに、娘の賢子は後に著名な女流歌人・大弐三位になり、親仁親王(後冷泉天皇)の乳母にも任ぜられて異例の出世を遂げますが、実の父が道長なら当然だったとも考えられます。

千年前の真実は誰にも分かりません。「光る君へ」が醸す「新事実」も同様でしょう。しかし、時代の価値観に則した歴史の解釈は、その時代に生きる人々の心に響いて、ゆかりの地を新たな光で照らします。これがホントの「語り継ぐ歴史」かもしれませんね。大河ドラマに感服です。 (地域ブランド戦略家・殿村美樹)

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