1969年、「アンドレ・カンドレ」としてデビューするも、71年に現在の名前で再デビューしたのが井上陽水。
ビートルズに夢中だった青年は69年、ザ・フォーク・クルセダース「帰って来たヨッパライ」を聴いて「自分もできる」と思い曲作りを始める。
大学進学のため上京したが、結局、進学をあきらめ、歌手活動に専念。地元・九州RKB毎日放送に音源を持ち込んだ。番組プロデューサーは「声質も異色で、陽気だがどこか寂しげなところに驚いた」そうだ。
プロデューサーはすぐに知り合いのCBSソニーに話を持ち込むと、反応もよく、事務所もホリプロに決まった。ソニーサイドは、カルメン・マキの「時には母のない子のように」がヒットしていたところだ。「アンドレ・カンドレ」としてデビューするが不発に終わった。続く70年、松山猛作詞、加藤和彦作曲という黄金コンビによる「花にさえ、鳥にさえ」もヒットには至らなかった。
このプロデューサーは九州のアーティストに目をかけており、私も75年の「夢神楽」という男性デュオを紹介された。96年には椎名林檎でもお世話になるなど業界屈指の名物プロデューサーだ。
さて本名の井上陽水(本名の読みはあきみ)としてポリドールから再デビュー。72年の「傘がない」あたりから知られるようになった。
陽水と小椋佳は同じレコード会社で驚異的なアルバムセールスを記録した。中でも陽水の歌唱は一語一語に説得力があり、声は力強く、どこか切ないのである。
小室等からボブ・ディランを薦められ、詞の世界に強い影響を受けたようだ。吉田拓郎もディランに影響を受けたが、それは詞よりも曲のほうに感じる。
拓郎と同じくアーティストへの楽曲提供も多い。後に夫人となる石川セリの「ダンスはうまく踊れない」(77年)や、中森明菜の10枚目のシングル「飾りじゃないのよ涙は」(84年)などがある。明菜のシングルは85年度の年間チャートで6位に輝くヒットとなった。 =おわり 【次週は「女優・小川眞由美 今、明かす私が歩んできた道」です】
■井上陽水(いのうえ・ようすい) 1948年8月30日生まれ、76歳。福岡県出身。2020年10月に公式ホームページにビデオメッセージを公開して以降、公の場での活動はしていない。
■篠木雅博(しのき・まさひろ) 株式会社「パイプライン」顧問、日本ゴスペル音楽協会顧問。1950年生まれ。東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)で制作ディレクターとして布施明、五木ひろしらを手がけ、椎名林檎らのデビューを仕掛けた。2010年に徳間ジャパンコミュニケーションズ代表取締役社長に就任し、Perfumeらを輩出。17年に退職し現職。