Infoseek 楽天

歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡 德永英明のカバー盤ミリオンセラーに明菜が反応「私が元祖、感謝してね」 両者のアーティスト戦略仕切っていた寺林晁氏は苦笑い

zakzak by夕刊フジ 2024年9月10日 6時30分

アルバム「歌姫」シリーズ3部作の合計が100万枚を突破した中森明菜。

3部作とは、1994年にMCAビクター(現ユニバーサルミュージック)から発売した「歌姫」、2002年にユニバーサルミュージックに移籍しての第1弾アルバムとして出した「―ZERO album―歌姫Ⅱ」、そして03年の「歌姫3~終幕」を指す。が、そもそも明菜でこの路線を頭に描いていたのは、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)時代にデビュー前から制作宣伝を仕切っていた寺林晁氏(22年11月没)だった。音楽関係者は言う。

「寺さんはアーティスト戦略にたけていましたからね。明菜のデビューでは『スローモーション』『少女A』、そして『トワイライト―夕暮れ便り―』の3部作で勝負したのです。そして『歌姫』でも3部作。とにかく、デビュー前から明菜に関してはコンセプトとボーカル力を際立たせた作品づくりにこだわり続けていましたよ。結局、他アーティストとの差別化を図る手法です。今では〝花の82年組〟などといわれますが、当時の明菜は5、6番手でしたからね。結果論ですが、やはり寺さんでなければ難しかったと思いますよ」

実は「歌姫」シリーズの戦略は、その後、やはり寺林氏によってユニバーサルに移籍した德永英明に引き継がれた。

「德永は05年に女性アーティストの曲のカバーアルバム『VOCALIST』を発売しましたがこれがミリオンセラーになったのです。その反響に真っ先に反応したのが明菜だそうで、寺さんに『あのアルバムの路線は私が元祖でしょ。キッカケを作ったのは私なんだから感謝してね』なんて言ってきたようです。寺さんは『アイツが嫌みったらしく言うんだよ。いやー、参っちゃうよね』なんて苦笑いしていましたけど…」(前出の音楽関係者)

しかし当時、寺林氏はカバーアルバムについて「企画アルバムという名目で出している方もいましたが、その多くが原曲に沿ったアレンジと歌唱法で、目新しい物が何もないのが現状だった」とした上で、明菜の「歌姫」シリーズは「歌手であるならば、書き下ろしであろうとカバー楽曲であろうと、歌うことに何も変わりはないんです。それは当たり前のことなんですよ。実はカバーアルバム自体に企画性はないと僕は思っているんですけどね。何を選び、どういうアプローチで新しい歌の命を吹き込んでいくのか、アート・ワークまで含んだその展開の方法に企画が生まれるのだと思っているよ。明菜の『歌姫』シリーズが他の作品と一線を画しているとすれば、その部分が大きく違うはずなんです」と語っていた。

さらに「歌姫」シリーズにピリオドが打たれたことについては「シリーズを終結したからといって、表現のための素材を新しい書き下ろし楽曲ばかりではなく、過去の優れた作品にも求めるという精神は何も終結したわけではないですからね。中森明菜らしい音楽的アプローチとビジュアル的なサプライズがふんだんにちりばめられたアート・ワークが一体となった作品は、シリーズと銘打たなくても大切なライフワークとして常に横にあるべきだし、実現の折には新しい明菜作品として、オリジナルのものとして認知されると思う」とも語っていた。

そんな中、明菜のための音楽レーベル「Utahime Records」をユニバーサル内に発足した。04年4月21日のことだ。このレーベル名は、もちろん3部作シリーズから命名したもので、ボーカリストとしての明菜のさらなる活躍を願って寺林氏が推し進めてきたものだった。自身の音楽レーベルの発足について明菜は「情報や作品としてストレートに発信できるプラットホームにしていきたい。そんな自由な空間が私の夢でした。新レーベルは私の夢への第一歩だと思っています。新しいチャレンジへの試行錯誤の向こうに、少しは成長した中森明菜の軌跡を残していきたい」と意欲的なコメントを寄せていた。 (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE―情熱―」などヒット曲多数。NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。

この記事の関連ニュース