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昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー列伝 作詞家・さいとう大三 スナックで馬飼野俊一さんと出会ったのがきっかけ 詞の1編が採用された「てんとう虫のサンバ」がミリオン

zakzak by夕刊フジ 2024年10月8日 11時0分

さいとう大三さんが作詞家になった経緯はこうだった。学生運動が騒がしかった時代、本を読み、酒ばかり飲んでいたが、友人のアルバイト先の白金のスナックで、馬飼野俊一さんに出会ったという。

友人が、物書きを目指していたさいとうさんを馬飼野さんに紹介してくれたのだ。書いた詞を見せると細かい指導を受けた。大学を卒業すると、田舎に帰り仕事に就いたが、詞を書きためては東京に出てきたとインタビューで語っていた。

ほぼ50年前の話を馬飼野俊一さんに聞くと、「白金の行きつけのスナックで詞を書いている学生を紹介されました。最初に詞を見せてもらったのは夜中の1時頃でした。ところが字数はバラバラ、サビもはっきりせず、歌にならなかったので、プロの作詞家の詞を勉強しなさいと言ったのを覚えています」と振り返った。

一方のさいとうさんの方は、仕事の後で少々疲れているが、楽しくてしかたがないという状況。あるとき、「先生、芸術は才能ではないでしょうか」と問うと、「いや努力だよ、努力、君も努力しなさい」と言われたそうだ。

馬飼野さん自身も商業高校でブラスバンドをやっていたが、作曲、編曲も独学だったので、そう言ったそうだ。

それから1年が過ぎた頃、馬飼野さんにチェリッシュのアルバムの依頼があり、さいとうさんの詞も1編採用された。それがシングルにもなった1973年の「てんとう虫のサンバ」(馬飼野俊一作曲)だった。

大阪のラジオから火がついて、ミリオンセラーとなり、チェリッシュはその年の「NHK紅白歌合戦」にも出場した。

勢いに乗ったさいとうさんは74年、西城秀樹の「傷だらけのローラ」(馬飼野康二作曲)がレコード大賞歌唱賞に輝き、オリコン24週ランクインのロングヒットとなった。演歌では82年に美空ひばりの「裏町酒場」(竜鉄也作曲)がヒット。現在もポップスから演歌・歌謡曲まで手がけている。

75年、ギター流しが新宿のゴールデン街の店を回っている頃、2人でいろいろと話をさせてもらった。柔和で寡黙、優しい笑みを浮かべるたたずまいの人だ。

■さいとう大三(さいとう・だいぞう) 作詞家。1970年代から作詞家として活動。ほかにはリンリン・ランランの「恋のインディアン人形」(74年)などを手がけている。

■篠木雅博(しのき・まさひろ) 株式会社「パイプライン」顧問、日本ゴスペル音楽協会顧問。1950年生まれ。東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)で制作ディレクターとして布施明、五木ひろしらを手がけ、椎名林檎らのデビューを仕掛けた。2010年に徳間ジャパンコミュニケーションズ代表取締役社長に就任し、Perfumeらを輩出。17年に退職し現職。

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