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久野潤 昭和19年・日本軍の戦い 特攻隊が後世に残したもの 「七生報国」を合言葉に 皇室を守って戦死、後世の日本人を奮い立たせ続けた楠木正成の〝後継者〟

zakzak by夕刊フジ 2024年9月1日 10時0分

レイテ沖海戦中の昭和19(1944)年10月25日、フィリピン・サマール島東岸を南下中の日本海軍・栗田艦隊は、米海軍護衛空母部隊「タフィ3」と交戦した。護衛空母1隻・駆逐艦3隻を撃沈したものの、艦載機での反撃を受け、重巡洋艦3隻を失った。

栗田艦隊が追撃を諦めた直後、「タフィ3」はさらなる恐ろしい攻撃を受けた。関行男大尉率いる、爆装零戦5機・直掩零戦4機から成る神風特別攻撃隊「敷島隊」である。敷島隊は体当たり攻撃で護衛空母1隻を撃沈し、他の隊による特攻でさらに護衛空母3隻を撃破した。

「タフィ3」に代わりレイテ攻略支援にあたった「タフィ4」も、10月30日に特攻隊の攻撃で空母2隻が撃破された。米国側調査では、フィリピン戦では650機の特攻機が出撃して174機が命中、米国側は4000人以上が戦死した。日本側では実際以上の大戦果と認識されたため、特攻作戦は沖縄戦を経て終戦まで続けられることとなる。

この最初の特攻隊を送り出した第一航空艦隊(フィリピンの基地航空部隊)の大西瀧治郎司令長官は、特攻を「統率の外道」、すなわち、「やってはいけない作戦だ」と認識していたとされる(終戦時に自決)。

当時、フィリピン・ルソン島に住む14歳の少年だったダニエル・ディソン氏(故人)は、戦後の昭和49(1974)年、現地に「カミカゼ記念碑」を建立した(=現在はマバラカット西飛行場跡に再建)。筆者に次のように伝えてくれた。

「私が接していた日本軍将兵が飛行場から飛び立って、二度と帰ってこないことは気付いていました。戦争が終わって20年後に読んだ古本で、彼らカミカゼの遺書を初めて目にして、畏敬の念が蘇りました。そして、日本がなぜ、アジア人で初めて白人を打ち負かすことができたのか研究することになったのです」

昭和19年11月20日には、水中特攻兵器「回天」によるウルシー泊地(現ミクロネシア連邦)への攻撃も行われた。この初出撃で、「伊47」潜水艦から発進した回天に搭乗し、大型タンカーを撃沈したのは、回天の創案者である仁科関夫中尉である。この「菊水隊」に続き、「金剛隊」「千早隊」「多聞隊」など、回天特別攻撃隊には建武中興の忠臣、楠木正成ゆかりの名称がつけられた。

最初の特攻隊が、フィリピンを守るために出撃したことに、筆者は往時の絵空事ではない「大東亜共栄圏」への思いを見る。

皇室を守って戦死した様が後世の日本人を奮い立たせ続けた楠木正成の〝後継者〟たるべく、「七生報国」を合言葉に出撃した特攻隊員たち。今の日本人に国防とは何か、世界平和とは何かを語りかけている気がしてならない。 =おわり

■久野潤(くの・じゅん) 日本経済大学准教授。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。政治外交史研究と並行して、全国で戦争経験者や神社の取材・調査を行う。顕彰史研究会代表幹事。単著に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など。共著に『決定版 日本書紀入門』(ビジネス社)、『日米開戦の真因と誤算』(PHP新書)など。

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