今年、最大の痛恨事は、胸椎を圧迫骨折したことだ。
ぼくは柔らかいベッドが苦手で、家では床にふとんを敷いて寝ている。
8月1日の朝、ふとんを畳んでいたとき、何かに足がひっかかって、思い切り、尻餅をついてしまった。
起き上がろうとしたが、痛くて立てなかった。
しばらくして、やっと立ち上がり、立ち上がればなんとか歩けるのだが、痛いことは痛い。
すぐに神保町整形外科に行き、レントゲンを撮り、CTスキャンをして、12個ある胸椎の一番下、12個目が圧迫骨折していることが分かった。要はつぶれてしまったのだ。
だんだん痛くなり、特に朝、起きるときなんて、思わずうなってしまうほど。
人間の背骨は上から7個の頚椎、12個の胸椎、そして5個の腰椎から成っているということを先生に教わった。
「骨折」とはいうものの、脚が折れた、手の指が折れたというのと違って、つぶれた部分が復活するということはなく、回りの筋肉が、そういう状態になじむのを待つしかないらしい。
この齢になると、ころぶのが一番恐い。ころんで大腿(だいたい)骨を骨折、再起不能になった友人もいる。
で、歩くときでも、ころばぬよう、後ろから自転車にぶつかられないよう、十分注意をしていたのにこんなことで!
悔しくてたまらなかった。
骨折したのは小学5年生のとき以来だから70年ぶりだ。
休み時間、校庭で「鶴亀」という遊びをやっていた(何人かずつ「鶴組」と「亀組」に分かれ、「鶴組」はケンケン、「亀組」は脚の下で両腕を組んで戦い、ころんだ方が負けというゲーム)。
ぼくはその日、「亀組」だったが、思いっ切り、突っころがされて組んだ手がほどけずに肩をつき、右の鎖骨を骨折してしまった。
すぐに校医だった下高井戸の秋田外科に連れていかれた。秋田外科は当時、なるべくギプスを使わないという方針で、包帯で肩を固定して吊(つ)ってもらった。
それから、毎日、秋田外科に通った。家は学校を挟んで反対側だったので結構遠く、20分くらいかかった。
心配した母が、毎日、一緒に行ってくれた。
母は草花が好きで、歩く道々、いろんな花や樹の名前を教えてくれたものだ。
翌年、12月初め、母は33歳で亡くなった。
その時、初めて知った「雪の下」。丸い葉で、白い花、今でも時々、見かけると、懐かしく思い出す。
余談だが、母がいちばん好きだった花は「都忘れ」だった。
今の都忘れは品種改良のせいだろう、花も大きくなり、濃い紫だが、その頃の都忘れは薄い紫、代々、育てて今も、わが家で季節になると咲いている。
話を胸椎骨折に戻すと、先生が、3、4カ月かかると仰ったとおり、最近になって、殆(ほとん)ど痛みは感じなくなった。さすがに走れはしないが、歩くのに不自由はない。
が、どうも姿勢が悪くなったような気がする。カミさんに指摘されると腹立たしい。
年寄りくさく見られるのは悔しい(十分、年寄りなんですけどね)。
で、歩くときは頭を上げ、顎を引いて、真っ直ぐ前方30メートルを見て歩くよう心がけている。
海軍兵学校式歩き方。
これは海兵出身で、文藝春秋の社長もつとめた田中健五さんに教わった。