太平洋戦争戦没者の御霊の安らぎを願い、感謝の祈りを捧(ささ)げる――。
今年も「国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑」で催された阿含宗の「千鳥ヶ淵万燈会(まんどうえ)」に出席した。
ここには先の大戦で亡くなった約210万の軍人・軍属・準軍属と30万の一般人、併せて240万人の戦没者の遺骨のうち、政府などが外地から持ち帰ったけれど、遺族に渡すことができなかった(つまり、遺族が不明だったなど)37万467柱が安置されている。
それぞれの遺骨には父もあり、母もあり、妻も子もあったであろう。
どんなに日本に帰りたかったことか。どれほど父母、妻子に会いたかったことか。
今、生きているわれわれは、靖国神社に祀(まつ)られた英霊とともに、決して彼らのことを忘れてはならない。
ぼくはそんな思いで、毎年、この「万燈会」に出席している。
例年通り、君が代斉唱から始まった会は鎮魂喇叭(ラッパ)「国の鎮め」吹奏があり、阿含宗本山中僧正清川●(=鯖の魚が立)法(せいほう)導師による法要があり……。
奏納演奏として男兄弟4人の「東京大衆歌謡楽団」が戦前、戦後の懐メロを歌う。
実はこれもぼくは楽しみにしている。不思議なことにぼくは彼らが歌う懐メロを殆(ほとん)ど知っているのだ。
戦後、すぐに育って、ラジオはしょっちゅう、聴いていたから、その時に流れていて耳に残っているのであろう。
藤山一郎が歌った「長崎の鐘」、西條八十作詞、古賀政男作曲、霧島昇が歌った「誰か故郷を想わざる」、そして、渡辺はま子が歌った「あゝモンテンルパの夜は更けて」……。
♪モンテンルパの夜は更けて
つのる思いにやるせない
……そして最後は、♪優しい母の夢を見る――と続くこの歌を聞くと、恥ずかしながら、ぼくは必ず泣いてしまう。
昨年5月、長年、海外で戦没者慰霊を続けている阿含宗一行200人に加えさせていただき、ぼくはマニラに行った。
フィリピンの戦争で亡くなった日本人は50数万人。太平洋戦争で唯一の市街戦となったマニラで犠牲となった市民は約10万人。
彼らの供養のため阿含宗で「大柴燈護摩供」を催したのである。
その時、モンテンルパ刑務所も訪れたが、コロナ禍以来、訪れる人も少なく、墓地は荒れていた。
バターン死の行進の責任を問われ、銃殺された本間雅晴中将はじめ処刑された戦犯たちの無念、望郷の念を思い、涙を禁じ得なかった。
この「万燈会」を阿含宗は2006年から始めたそうだが、それより前、1977年のパラオ諸島から始まって、シベリア、サハリン、ガダルカナル、ニューギニア、サイパン、テニアン、ミャンマーなど、太平洋戦争中、多くの日本人が亡くなった各地で戦没者の供養をし、「御霊を故国日本に連れ帰るため」の護摩法要を営んでいる。
政府から一銭の援助があるわけでもない。
日本には数多くの宗教団体があるけれど、「日本のために散華された戦没者の御霊の安らぎを願い、感謝の祈りを捧げ続け」ている宗教団体が他にあるだろうか。
この事実をもっと多くの人に知ってもらいたくて、この一文を書いた。
万燈の光の中、時々、聞こえるニイニイゼミの声。
祖国日本のために自らの命を捧げた人々に思いを致す、貴重なひとときであった。