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久野潤 昭和19年・日本軍の戦い 「無謀」の代名詞・インパール作戦 英国は「グレイテスト・バトル」と評価 独立闘争の契機、インド人を奮い立たせたとも

zakzak by夕刊フジ 2024年8月29日 11時0分

海軍がマリアナ沖で苦戦しているころ、陸軍はインドにおいてインパール作戦を展開中であった。昭和19(1944)年3月に発動され、7月に中止となったインパール作戦は、「無謀な作戦」の代名詞のように取り上げられることが多い。

加えて、第15軍の牟田口廉也(むたぐち・れんや)司令官の独断で強引に進められた作戦であるように誤解されがちだが、前年11月に東京で開催された「大東亜会議」の影響を忘れてはならない。

アジア諸国による初の国際会議であった大東亜会議では、自由インド仮政府を代表してチャンドラ・ボースが出席し、インドだけは他の参加国と違い、もしこのまま戦争が終われば(英国の植民地から)独立できないと熱弁した。もともと、消極的であった牟田口司令官にも、ボースはインド進攻を焚きつけたという(関口高史『牟田口廉也とインパール作戦』光文社)。

インパール作戦は、第15軍隷下の第31師団が要衝コヒマを占領して英国軍の補給・増援を遮断し、第15・33師団でインパールを攻略するというものであった。日本軍は川幅数百メートルのチンドウィン川、標高3000メートル以上の山が連なるアラカン山系を越えた。特に、宮崎繁三郎歩兵団長率いる左突進隊は、驚異的な進軍スピードでコヒマを奇襲し、制圧した。

しかし、補給がなく、食料・弾薬が欠乏したため、第31師団は佐藤幸徳師団長の独断で撤退する。この抗命(=命令に背くこと)はTVドキュメンタリーなどでは称賛されがちだが、残る2師団がコヒマ―インパール間で挟撃され、さらなる惨状を呈すこととなった。

インパール作戦は、戦後の日本で酷評される一方、平成25(2013)年に英国立陸軍博物館の企画で歴史家たちにより、ノルマンディー上陸作戦やワーテルローの戦いを抑えて「グレイテスト・バトル」に選ばれている(笠井亮平『インパールの戦い』文藝春秋)。

筆者も度々参列した京都市・京都霊山護国神社でのパール博士(=東京裁判の判事で唯一、被告全員の無罪を主張した)献花式の際、インド総領事から「インド独立はインパール作戦のおかげ」と聞かされている。「インド解放」を掲げる日本軍が幾万もの戦死者を出したことが、本格的な独立闘争の契機となったということであろう。

凄惨(せいさん)な戦場で命を落とした将兵に慰霊の誠を捧げると同時に、彼ら自身も知らぬところでインド人を奮い立たせたことに対する顕彰の気持ちを抑えられぬのは、筆者だけであろうか。

ガンジーの「非暴力・不服従」のみでインド独立が果たされたように説く日本の歴史教育も、目下の厳しい国際情勢と相まって再考が求められよう。

■久野潤(くの・じゅん) 日本経済大学准教授。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。政治外交史研究と並行して、全国で戦争経験者や神社の取材・調査を行う。顕彰史研究会代表幹事。単著に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など。共著に『決定版 日本書紀入門』(ビジネス社)、『日米開戦の真因と誤算』(PHP新書)など。

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