時は戦国時代の1543年、ポルトガル商人が種子島へ漂着し、鉄砲(火縄銃)を初めて日本に伝えた。その後、ポルトガルとの交易が広がったが、ポルトガルは日本を植民地にしなかった。この頃のポルトガルの振る舞いを考えると、実に不可思議なことではないだろうか。
イタリアのイエズス会巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノはこう言っている。
《日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら(中略)国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服可能な国土ではない》(波多野毅著『世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰』ごま書房)
イエズス会が日本征服をあきらめた理由について、波多野毅氏は、死をもいとわぬ武士の存在、日本人の進取の気風と民度の高さを挙げている。つまり、「武士という防衛力」と「行き届いた教育」が日本を守ったのだ。これまさしく防衛力整備の基礎である。
豊臣秀吉の治世では、ポルトガルをはじめ外国との貿易も行ったが、秀吉はキリスト教の拡大を警戒し、1587年に「伴天連(バテレン)追放令」(伴天連=宣教師・神父)を出している。現代の歴史認識では、キリスト教徒の宣教師・神父に対する迫害といった一面だけが流通しているが、実は、これは秀吉の〝安全保障政策〟でもあったのだ。
実はポルトガル人は、日本人を奴隷として連れ去り、世界各地で売買したりしていたのだ。日本人女性をまさしく性奴隷として買ったりしていたという。
秀吉はこう述べている。
《予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう、と》(ルイス・フロイス著、松田耕一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史4―豊臣秀吉編』中公文庫)
つまりバテレン追放令は、日本人を守るいわば〝国民保護法〟であり、「日本初の安保法制」だったわけである。
秀吉は危機管理に優れた武将であったのだ。
現代の政治家は、いかなることがあっても「国民を守る気概」と「安全保障感覚」を秀吉に学ぶべきであろう。
■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。産経新聞「正論」執筆メンバー。フジサンケイグループ第17回「正論新風賞」、第6回「アパ日本再興大賞」を受賞。著書・共著に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『封印された「日本軍戦勝史」』(産経NF文庫)、『歪められた真実~昭和の大戦(大東亜戦争)』(ワック)、『今こそ、日台「同盟」宣言!』(ビジネス社)など多数。