初シード選手として臨んだ1985年。開幕戦で左手首を痛めて予選落ち。治療しながら2戦目からは「練習なしのぶっつけ本番」で強行出場しました。
迎えた中日クラウンズ。通常トーナメントよりも規定打数が2打少ないパー70は、痛めた左手への負担が少なくて済みます。さらに〝難攻不落〟といわれる開催コースの名古屋GC和合コースは、僕が所属していた我孫子GCに似たコースでした。距離はさほど長くはないものの、小さな砲台グリーンをガードバンカーが取り囲み、ショット力とショートゲームの巧みさが問われます。
初日はイーブンパーの18位タイ、2日目もイーブンパーで12位タイ。85年のツアーでようやく決勝ラウンドへ駒を進められたのです。3日目はショットが不思議とさえ、10ホールでパーオンし、パットも次々に決まってバーディーを6つも取れました(2ボギー)。
シーズン初のアンダーパーで、66で回ることができました。首位の中嶋常幸とは2打差の通算4アンダーの単独2位にジャンプアップ。手負いの身ながら予選通過できただけでも本当にうれしかったのに「まさか」の最終日最終組となったのです。
最終日の1番では中嶋とともにバーディー発進ができ、2番パー5でもバーディーパットが入ってくれました。連続バーディーで1打差に迫ったものの、3番でボギーを叩き、再び2打差に広がりました。
しかし、ショックはありませんでした。ショット練習を控えて「ぶっつけ本番」でラウンドしているのだから、ボギーを打っても仕方ない。最終組で回れるだけで幸せだ。痛めた左手をかばってのプレーだけに何とか食い下がって2位で上がれたら…。その一心でラウンドしていたのです。
前半の2バーディー、2ボギーは自分にとって上出来でした。首位の中嶋は1バーディー、2ボギーだったため、1打差でサンデーバックナインへ。すると同じ最終組の先輩プロである矢部昭が声を掛けてきたのです。
「中嶋は(スコアを伸ばせず)苛立っているみたいだから、(逆転の)チャンスがあるぞ。落ち着いていけよ」
優勝のことなどまったく頭になかった僕は「そうですか?」と気のない返事をしたのでした。
(構成・フリーライター伝昌夫)
■海老原清治(えびはら・せいじ) 1949年4月2日生まれ、千葉県出身。中学卒業後に我孫子ゴルフ倶楽部に入り、20歳で日本プロゴルフ協会プロテストに合格。85年の中日クラウンズでツアー初優勝。2000年から欧州シニアツアーに本格参戦し、02年に3勝を挙げて賞金王。20年、日本プロゴルフ殿堂入り。174センチ、74キロ、血液型A。我孫子ゴルフ倶楽部所属。