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歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡 中森明菜に「憧れ」抱く酒井法子、衣装で影響力絶大のスタイリスト・東野邦子さんに直談判!「少しでも近づきたい…」

zakzak by夕刊フジ 2024年6月25日 15時30分

2002年の大みそか。中森明菜は14年ぶりに「第53回NHK紅白歌合戦」にカムバックした。明菜の「紅白」出場は7回目である。

「明菜が最後に出場したのは昭和の最後、1988年でした。もちろん平成に入ってからも音楽活動は続けてきましたが、出場の機会に恵まれませんでした。その間、『紅白』の視聴率も下降線をたどってきました。とはいえ、1年を締めくくる国民的音楽番組ですからね。出場できるかどうかは歌手としての評価にもなります。そんな意味でも明菜自身もうれしかったと思います」と当時を知る音楽関係者は振り返る。明菜はスポーツ紙のインタビューに次のように語っていた。

「(14年前に)出させていただいた時もそうでしたが、『紅白』が全部終わって、衣装を着替えに楽屋に戻ると、もう除夜の鐘がなっているんです。みんなと『あ~、除夜の鐘だね。終わったね。お疲れ様でした』って言っている時に、やっと『紅白』に出場できたことを実感できるんです。それまでは無我夢中になっているので、感じてる暇がないというか…。ですから、今回も全てが終わった後に『あ、今年も出ることが出来たんだ』って実感し、喜んでいるのだろうと思いますね」

過去の「紅白」を振り返っても、明菜の場合は歌唱力だけではなく、衣装やダンスでも視聴者を魅了してきたことは言うまでもない。その存在は当時のアイドルにも大きな影響を与えてきた。

「(松田)聖子さんや明菜さんは、歌唱力はもちろん、衣装を含め存在自体が憧れでした」と言う歌手で俳優の酒井法子も実はその1人だった。

「あるテレビ番組に出演した際、明菜さんと楽屋が一緒だったことがあったんです。その時、もう緊張してお話しすることもできなかったのですが、明菜さんから優しくお話ししてくださったんです。しかも明菜さんの衣装を担当していた(スタイリストの)東野邦子さんと知り合うことができたのですが、おこがましいことですが、少しでも明菜さんに近づきたいと思い、ダメ元で東野さんに私の衣装もお願いしたんです。すると快く受けてくださったんです、今でも感謝しています」

東野さんは明菜のファッションに大きな影響を与えてきたといわれる。1980年代の全盛期にワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で明菜のプロモート担当だった田中良明(現在は沢里裕二の名義で作家活動)が振り返る。

「記憶する限り、明菜は『飾りじゃないのよ涙は』あたりから一気に変わった感じでしたね。肩パットの入ったバブリーなスーツに、当時流行していたアーストンボラージュ系のスタイルになっていったのです。これらは、おそらくスタイリストだった東野さんの影響だったと思います」

東野さんは現在でも各メディアなどで活躍しており、藤あや子や坂本冬美ら数多くの女優やアーティストからの信頼も厚い。酒井の衣装は継続しているというが、一方で明菜とも連絡を取り合う関係だ。

明菜は当時、次のようにも語っていた。

「見ていた方も同じだと思いますが、現場にいた私も、本当に華やかな時代だったと思っています。私だけじゃなくて、みんなが凄く忙しそうで、自分をいかに綺麗に見せようかって、本当に必死になっていたと思います。自分は、こうやった方がカッコいいと思っても、『みんなが喜ぶから』を先に考えていたのかもしれません。露出される時間が、今に比べたら本当に多かった時代ですし、見ている人たちのため、を最優先に考えて動かなきゃいけないと思っていました」とし、さらにその上で「自分自身が『紅白』やベストテン番組を楽しみに、ずっと見ていた時の気持ちを絶対に忘れちゃいけない、と思い続けていました。『今回はどんな衣装なんだろう』『どんな笑顔を見せてくれるのかな』って。同じ立場で見ている方がいるから、その気持ちを忘れないと…」。

明菜のそんな思いは、今もあらゆる場面で受け継がれている。

■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE―情熱―」などヒット曲多数。NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。

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