Infoseek 楽天

柴田惣一 今日も一緒にプロレスを楽しみましょう! 大仁田厚「賛否両論、上等じゃ!」破天荒な邪道人生 7度の引退と復活、確立した「電流爆破マッチ」きっかけは牧場の手伝いだった

zakzak by夕刊フジ 2024年9月2日 6時30分

「邪道」大仁田厚の破天荒人生が再認識されている。

大仁田は自身の「デビュー50周年記念大会」(8月24日、神奈川・富士通スタジアム川崎)で「テリー・ファンク一周忌追悼マッチ」を闘った。主役の座を譲らない男が、この日ばかりはテリーの兄で83歳のドリーと、がん闘病中ながら出陣してきた西村修に敬意を払っていた。

「ネバー・クイット・フォーエバー」と繰り返すドリー、そして「必死にプロレスとともに政治とともに、まだまだ生きて行きます」と万感迫る西村のアピールを見守った後「勝っても負けても記憶に残る試合を感じていただければ」と殊勝な語り口だった。

1974年に全日本プロレスでデビュー後、ジュニア戦士として活躍。最初の引退をしたが89年にFMWを設立。復帰後「電流爆破マッチ」という新たなスタイルを確立し、その後も自らの団体や様々な団体で大暴れしてきた。

7度の引退と復活を繰り返した邪道流に、批判する声も多いのは百も承知。「他の人みたいに休業にしとけばよかった。頭が回らなかった」と悔やんだ。もっとも、自分の生き様に後悔はない。「一度きりの人生。やりたいことやらなくちゃ」とレスラーとして政治家として走り抜けてきた66年に胸を張る。

小学校低学年の頃には合唱団に所属。地元・長崎でウィーン少年合唱団と一緒に自慢のボーイソプラノを披露している。中学卒業後には徒歩で日本一周に挑戦もしている。

レスラーとして米武者修行中にテキサス州アマリロのファンク道場に入門した際、牧場の手伝いも励んだ。ある時、牛たちが逃げないように柵を設置していると、テリーに「ヘイ、これでやってくれ」と指示されたのが、初めて手にした有刺鉄線だった。「今、思うと有刺鉄線電流爆破マッチの原点はこれだった」と40年以上前を振り返る。

「その髪、ナニ? 俺は地毛が真っ黒で染めてもいないよ」と顔を合わすやニヤニヤ。大先輩ではあっても、年齢は一つしか違わない。互いに遠慮なく言葉を交わせられる仲だと思っている。

治療中の西村をリングにあげることに疑問を突きつけると「彼の希望だし彼の人生。やらないで後々ウジウジするより、トライした方がいいだろ」とキッパリ。実際、西村の晴れやかな顔がすべてを物語っていた。

師匠のジャイアント馬場にかわいがられ、政界に進出したアントニオ猪木の背中を追いかけた。時には反発を集めた大仁田厚の破天荒な邪道人生。「賛否両論、上等じゃ!」人生は一度きり。主役は自分自身。これからも止まることなく我が道を走り続ける。 =文中敬称略 (プロレス解説者・柴田惣一)

この記事の関連ニュース