1985年の中日クラウンズ最終日、10番パー4ホール。最終組で一緒に回っていた先輩プロの矢部昭の予言「(逆転)チャンスがあるぞ」が現実味を帯びたのでした。自身のプレーに苛立ち気味だった首位の中嶋常幸がボギーを叩き、僕がパーセーブしたことで首位タイになったのです。
11番パー4は左ドッグレッグで、2打目からは打ち上げのホール。ピン奥5メートルからのバーディーパットをねじ込むことができ、ついに単独首位に立ったのでした。しかし、続く12番パー4で今度は僕がボギーを打ち、再び首位タイ。さらに14番パー4では中嶋がボギーとして僕が首位に抜け出す試合展開となったのです。
迎えた16番パー4は2打目地点から直角に曲がる左ドッグレッグ・ホール。2打目はグリーン奥にこぼれてバンカーに入ったものの、ライが良く、修業を積んだ我孫子GCのバンカーと似ていたことで僕は難なくカップに寄せ、パーセーブできたのでした。一方の中嶋は1メートルほどのパーパットを外してボギー。残り2ホールでその差は2打に広がったのです。
迎えた17番パー3は池越えで、強烈な受けグリーンの難ホール。下り傾斜ではボールに触れただけでいつまでもコロコロと転がるグリーンが有名でした。6番アイアンで打ったティーショットはピン奥1メートルに乗りました。
下りのバーディーパット。『これを決めたら3打差に広げられる』。その「欲」で「打って」しまったパット。ボールは読んだラインを外れ、カップを過ぎて1メートルもオーバーしたのです。
グリーンを取り囲んだ大勢のギャラリーからは、タメ息がもれました。ようやく止まったボールをマジマジと見つめたとき、僕は「プッ」と吹き出してしまいました。
『まったく、もう。ボールに触れるだけでいい、カップに寄せるだけでいいのに…。返しを外したらまた首位タイじゃないか。苦しいパット、プレーをしなくてはならないだろ』
自分にあきれて、その思いが吹き出し笑いになったのです。
3打差に広げられるバーディーパットを決めきれず、外せば首位に並ばれるパーパット。しかし、自分のプレーを客観視できたのが良かったのかもしれません。ある意味、開き直れたのかもしれません。返し1メートルのパットをしびれることなく、ねじ込むことができたのです。
(構成・フリーライター伝昌夫)
■海老原清治(えびはら・せいじ) 1949年4月2日生まれ、千葉県出身。中学卒業後に我孫子ゴルフ倶楽部に入り、20歳で日本プロゴルフ協会プロテストに合格。85年の中日クラウンズでツアー初優勝。2000年から欧州シニアツアーに本格参戦し、02年に3勝を挙げて賞金王に輝く。20年、日本プロゴルフ殿堂入り。身長174センチ、体重74キロ、血液型A型。我孫子ゴルフ倶楽部所属。