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渡邉寧久の得するエンタメ見聞録 真実に基づく祖国の誇りをかけたRUN 困難に次ぐ困難、レース中にも決定的なアクシデントが襲う 映画「ボストン1947」

zakzak by夕刊フジ 2024年9月2日 11時0分

実話には名作のタネが眠っている。その芽を見つけ、育て、難題を次々に乗り越えるカタルシスたっぷりの作品に仕上げたのは、映画「シュリ」などを手掛けたカン・ジェギュ監督だ。

昨日公開された映画「ボストン1947」。パンフレットに大きな活字で躍る「真実に基づく衝撃と感動のヒューマンエンターテインメント!」の表記は、過剰表現ではない。

民族の英雄として国民的人気を誇るその男、ソン・ギジョン(ハ・ジョンウ)は安定した仕事も辞め、酒浸りの日々を送っていた。マラソン大会の表彰式のプレゼンターに招待されていたが、酒臭い状態で遅刻するありさまだ。

体形にマラソン選手の面影は残っていないが、ギジョンは1936年のベルリンオリンピックでマラソン競技に日本代表として出場し、金メダルに輝いた英雄。祖国の国旗を胸につけて走れなかった後悔が、英雄を自堕落にさせていたのだ。

かつてのライバルのナム・スンニョン(ペ・ソンウ)は英雄を立ち直らせる思いで、1947年にアメリカで開催される第51回ボストンマラソンへ指導者として選手を送り込むことを提案する。

当時の韓国は、建国前で、米国の「難民国」という位置づけ。多くの庶民は、その日暮らしの生活を強いられていた。

代表団を送り込むにしても、選手を育てる資金はない。靴もない。有望な選手さえいない。米国に入国するための保証金900万ウォン(当時は30万ウォンで家が買えたという)のめども立たない。

困難に次ぐ困難。それでも何とか、空路ボストンへ向かうまでにたどり着いたが、ボストン到着後もさらなる困難が待ち受けていた。支給されたユニホームの胸に太極旗はなく、難民国であるため米国の星条旗が当然のごとく縫い付けらえていた…。ダークホースとして順位を上げるレース中にも、決定的なアクシデントが襲う。

難題が立ちはだかる時間の流れだが、時折ユーモアをまぶし(現地の保証人の怪しい風貌や水洗トイレで顔を洗う場面など)、お涙ちょうだいばかりのドラマ仕立てにしないのは監督の手腕だ。

実話ベースの名作が多い韓国映画に、あらたな実話ベースの名作が加わった。 (演芸評論家・エンタメライター)

■渡邉寧久(わたなべ・ねいきゅう) 新聞記者、民放ウェブサイト芸能デスクを経て演芸評論家・エンタメライターに。文化庁芸術選奨、浅草芸能大賞などの選考委員を歴任。東京都台東区主催「江戸まちたいとう芸楽祭」(ビートたけし名誉顧問)の委員長を務める。

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