来年5月にデビュー30周年を迎える。先ほどリリースしたシングル「瀧の恋歌」(いとう彩作詞、岡千秋作曲、キング)はそれを祝うかのような豪快な情念の歌だ。
「30周年記念に大げさな歌を作ろうという話になったんです。そして、本当にスケールの大きい歌をいただいたので、レコーディングでは、この曲に負けてなるものかと思い、力いっぱい歌いました。歌の主人公は悲しくて寂しい女性です。ただ私自身は、この道の向こうには必ず幸せが待っているって思いながら歌うんです。悲しい終わりじゃなくて、絶対また幸せになれるという思いも込めたんですよね」
作曲した岡からも「抑えなくていい、声を出せ。こぶしを回しまくれ」と指導されたとも。しかし元気に歌った理由はそれだけではない。
「今年は大きな地震や豪雨の被害に遭われたというニュースが多くて、気持ちが落ちている中でのレコーディングだったんです。止まない雨はないとかいうのは簡単ですが、必ずいい日は来るんだという思いで、歌える喜びをぶつけました。この思いが届けばいいですね」
彼女にとって、この30年はどのようなものだったのだろう。
「私は10年目で一度、歌をやめた人間なんです。だから、この30年という時間は決して当たり前ではなく、なんと幸せで恵まれた時間なんだろうって思うんですよね。今、歌えていることという幸せを感じています。あの日に帰りたいというのがないぐらい〝今が一番いい〟と思える30年ですね」
そう、彼女はデビュー10周年を迎えた2005年、歌手を一度やめている。声がまったく出なくなってしまったのだ。
「10周年を迎えるにあたって、頑張れ頑張れという感じで本当に休みなく歌っていたら、声の調子がなんかおかしいなって思ううちに、本当に出なくなる日がやってきちゃって。それでいよいよダメですということで、事務所をやめて実家の秋田に帰ることにしたんです」
声が出ないということは、歌手にとってつらいことだった。
「お客さまの前で、こんな声で歌っているのが恥ずかしいと恐縮していると、もうステージに立つこともつらいんです。もう歌えないっていう思いが強くなって、精神的にもまいっちゃったんですよね。引き止められもしましたが、もう戻る気はしなかったんですよ」
しかし不思議なことに実家に帰ると、自然と声の調子は戻っていった。
「冗談みたいな話ですが、もう働かなくていいんだと思ったら、なんか声が出るんですよ」。ただ「次の仕事は何をしようかとワクワクしながらも、父親がネックだったんですよ」とも明かす。
幼いころから、歌手を目指してきたのは、父のたっての願いでもあった。それだけに、歌手をあきらめて帰ってきた娘に、父は「悔しくないのか」と言葉を投げかけたという。
「ほんと、男親ってデリカシーがないですよね(笑)。今、思うと、あの父の憎たらしい言葉がなければ、またこうして歌の世界には戻ってきていなかったかもしれないので、ありがたかったのかな」
そんな父は今も元気に秋田で米農家を営んでいる。彼女にとって一番のファンは父かもしれない。
「復帰するときは泣いて喜んでくれました。それぐらい父も悔しかったんでしょうね。だから今、誰よりも喜んで私の追っかけをしてくれていますよ。本当、誰よりも先に会場に来ていますよ。ありがたいですね」
これからの歌手人生、どのように歩んでいくのだろうか。
「いい歌を歌っていきますよ。ぜひ皆さんに生の歌を聴いていただいて、やっぱり岩本公水の歌は良かったなと思っていただけるような、そんな歌を残していきたいと思います。あとここ数年、小唄を習っているんです。音程や節回しも演歌とは全然違うんですが、こんな面白い文化が日本にはあったのかって刺激を受けています。だから、私もしっかり勉強して、歌いつないでいきたいですね」
いつでもポジティブ。彼女の歌には、そんな思いが込められている。
■岩本公水(いわもと・くみ) 演歌歌手。1975年6月4日生まれ、49歳。秋田県出身。高校卒業後、歌手を目指して上京。有線放送で電話受付のOL時代にスカウトされ、95年5月、「雪花火」(キング)でデビューした。97年にはNHK新人歌謡コンテストでグランプリを受賞し第48回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。2005年から2年間、休業している際、介護ヘルパー2級、障害者ヘルパー2級などの資格を取得した。趣味の陶芸は埼玉県東秩父村に工房を構え、個展を開催するほどの腕前。
11月6日に横浜市のローズホテル横浜で「岩本公水ディナーショー」を開催。2025年4月29日には、秋田湯沢文化会館で30周年記念コンサートを開催予定。
ペン・福田哲士