〝漫画の神様・手塚治虫〟に憧れてプロになったという漫画家は多い。自身もその1人だ。
「幼い頃からずっとプロの漫画家とアニメーターになるのが夢でした。手塚先生が両方の仕事で活躍されていましたからね」
この「明確な夢」を追い、北海道の高校から大阪芸術大学へ進学。「在学中にプロ漫画家としてデビューしたので上京。大学は中退…。いえ、除籍です」と笑う。
現在、兵庫県の宝塚市立手塚治虫記念館で「島本和彦 炎の原画展Ver.2~ふたりの手塚編~」が開催中だ。自身の活動の集大成だが、サブテーマのキャッチコピーが興味をひく。
«あなたは知っていますか? 島本和彦の本名を»
すると、「私の本名は手塚秀彦と言います」と目の前でニヤリ。
同じ名前は光栄だと思うのだが、「プロデビューした私が『手塚先生』と呼ばれるわけにはいきません。だからペンネームにしたんです」。
それほどに尊敬し、憧れる手塚を顕彰するために創設された記念館で個展を実現できたことが感慨深い。
スポ根漫画「逆境ナイン」や、芸大時代の実生活をリアルに描いた青春コメディー「アオイホノオ」などヒット作を連発。島本の名は漫画界にとどろくが、その本名が手塚だと知る者はどれほどいるだろうか。
憧れの手塚との〝対面〟は一度だけだった。
「それも漫画家の会合ですれ違っただけです。恐れ多くて声をかけることなどできなくて…」
〝ファンのまま〟描き続けて現在63歳。「手塚先生が亡くなった年齢(60歳)を超えてしまいました」
大ヒットアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」や映画「シン・ゴジラ」で知られる映画監督、庵野秀明は芸大の同級生だ。
「アオイホノオ」はドラマ化もされ、人気俳優の柳楽優弥が主人公のモユル(=島本)を、実力派の安田顕が庵野のモデルを演じた。〝永遠のライバル〟の2人が激しく火花を散らす対決シーンが話題を呼んだ。
「けんかばかりしていたように見えたでしょうが、実は今でも仲の良い友人。お互いの作品について批評しあえる大切な仲間です」と笑う。
ドラマの最終回。柳楽演じるモユルがバイトでためたお金でバイクを買いに行くシーン。ホンダのジャンパーを着たバイク店主の顔をよく見ると島本本人だ。
店主が「どこへ行く?」と聞くと、「とりあえず大学まで…」と返すモユル。すると店主はいう。
「違うぞ若者。明日に向かって走るんだよ!」
プロとなった島本が、夢を追う大学生の自分に向かってげきを飛ばす感動的なラストシーンだ。
「実はあのセリフは、福田(雄一)監督が私に書かせてくれたんです」と〝秘話〟を明かした。それだけ思いがこもったせりふだったのだ。
その福田監督とは漫画原作のドラマ化などで長い付き合いだという。
「北海道に他の原作のドラマ化で打ち合わせに来た福田監督が、帰りの飛行機で読むからと持ち帰った漫画がたまたま『アオイホノオ』だったんです」
すぐに福田監督から「ドラマ化したい」と連絡が来たという。
それにしても、芸大の同級生たちはその後の日本アニメ界を支える庵野をはじめそうそうたる顔ぶれだ。
「あれだけ辛辣(しんらつ)に描いているのに、クレームが一つもこない。みんなまだ存命中なのに」と笑う。
企画展の会場には大きく〝ふたりの手塚〟の文字が躍る。憧れの手塚に近づきつつも「まだまだ描かないと」ともう一人の手塚は言う。その口元に尽きることのない創作への意欲がみなぎっている。
言うまでもなく熱い男なのだ。大学時代、体育の授業でのこと。バスケットの試合で、「俺のせいでボールを奪われたあ。この責任は必ず俺が取るぞ」とコートを走り回る姿に同級生たちはこう思ったという。
「自分が描く漫画の主人公そのものじゃないか!」と。瞳の奥の炎は40年たっても、まだ燃えていた。
■島本和彦(しまもと・かずひこ) 漫画家。本名=手塚秀彦(てづか・ひでひこ)。1961年4月26日生まれ、63歳。北海道出身。大阪芸術大学在学中の82年、「週刊少年サンデー」2月増刊号に「必殺の転校生」が掲載され、漫画家デビュー。デビュー直後の「炎の転校生」、2005年に映画化された「逆境ナイン」、14年にテレビ東京系でドラマ化された、自身をモチーフにした「アオイホノオ」、同じく自身がモチーフの「吼えろペン」などヒット作多数。宝塚市立手塚治虫記念館で「島本和彦 炎の原画展Ver.2~ふたりの手塚編~」が開催中。10月27日まで。
ペン・波多野康雅/カメラ・南雲都