「大丈夫ですか? あそこまで書いちゃって」
拙著『日本外交の劣化 再生への道』(文藝春秋)を5月に出版以来、何人もの人から問われてきた。おかげさまで好評を博し、今や4刷だ。
次官や大使など、責任を負うべきポジションに就いていた人物の言動を名指しで批判したことが注目を浴びた。言及された人物の反発には驚かなかったが、うれしかったのは、90代や80代の何人もの大先輩から「よくぞ書いた」「君の書いたことに120%同意する」といった反応が寄せられてきたことだ。
加えて、志高い後輩からは「引き続き正論を言い続けてください」との激励も届いた。こうした反応がある限り、「外務省再生も夢ではない」と信じている。
その一方、「ぜひ大使には、次の本で書いてほしいのです」という添え書きとともに伝えられてくる不祥事や規律の弛緩(しかん)もある。
私が驚き憤慨したものの1つに、安倍晋三政権が、択捉、国後をあきらめて2島返還のラインで北方領土交渉を進めていた際、なんと在オーストラリアの日本大使館の幹部の間で、「(歯舞、色丹の)2島は返ってくる」、あるいは「何も返ってこない」として賭けが行われていたとの内部通報だった。
ソ連兵に銃口を突き付けられて追い立てられた旧島民の方が聞いたら、怒髪天を衝く思いだろう。
どうしたら、ここまで緊張感をなくし、国民世論と遊離した組織を立て直せるのか?
処方箋の一つは、責任の所在の明確化だ。
だからこそ、拙著でも、批判すべき時にあえて実名を挙げたのだ。
外務省に限らず巨大な官僚機構や大企業では、誰しもが匿名性のカーテンの陰に隠れて、説明責任を負わずに逃げがちである。
「それは組織が決めたことです」
そんな言い逃れを許してはならない。
「外務省―、しっかりしろー!」
街宣車がいくら怒声をあげて桜田通りを疾走しようが、大臣も官僚も何の痛痒(つうよう=苦痛)も感じない。物事を変えようとするなら、透明性を高め、説明責任を追及することこそ本筋だろう。
思い返せば、退官の引導を渡された私が外務事務次官室を去ろうとした際、当時の次官の森健良氏は執拗(しつよう)に私に握手を求めてきた。そして、「これから本を書きます」と述べた私に対し、「個人攻撃だけはやめようよな」と上目遣いに念押しをしてきた。
霞が関に数多く生息する匿名官僚の危険回避、知的怯懦(きょうだ=臆病)を象徴する言動以外の何物でもなかった。だから、名指しの建設的な批判が必要だと今も信じている。
(前駐オーストラリア大使、外交評論家) =おわり