2016年9月3日、最近になって一般観光客にも解放されたカレン州パアンに仙人がいるのだという。「ポータケ」と呼ばれるその男が何故仙人となったのか、どんな不思議な力を持ってして仙人と呼ばれるようになったのか、パアンという町に行って、「ポータケ」の名前を口にすれば、誰でも知っている。そんな不確かな情報を頼りに、秘境カレン州に出掛ける事にした。
カレン州パアンはヤンゴンから東へ270キロに位置し、さらに東にあるタイとの国境ミャワディ・コーカレイ間は今なおミャンマー国軍とカレン武装勢力のもみ合いの続く、不安定な地域だ。
ヤンゴンから車で進むこと約5時間半。岩壁の反りたつ中国の水墨画の様な山が幾つも現れ、奇界とも言える風景が広がり始めると、まもなくパアン市内に到着した。市内には太鼓と水牛角をモチーフにしたカレンの旗が掲げられ、改めてカレン族の民族意識の高さを感じるが、市内には「ロンリープラネット」を片手に、ミャワディー側から入国した欧米人のバックパッカーの姿も多く、思いのほかのんびりしている。
「ポータケに会いたい」と言うと、市内から30分ほど郊外にポータケの生まれた村があるというので、さらに車を進める。山からの澄んだ清水を貯めた美しい池のほとりにポータケの生家があった。そこで運よく、ポータケの母親という人に話を聞くことができた。
ビルマ語があまり得意ではないという母親の話によると、ポータケは小さな頃から優秀でヤンゴンの大学に進学し、卒業後パアンに戻って悟りを開き、今では山で信者と共に生活しているのだという。
現在、ポータケが住む広大な土地はキンニュン元首相がカレンを訪れた際に、村の人たちがロンジーにタイポンというビルマ族の正装で迎えたところ、「何故その様な姿をしているのですか、カレン族なのだからカレンらしい服装で構わないのですよ」と言って、カレンの文化を守り、尊重するようにと、その広大な土地をポータケに与えたのだという。この話の背景にはキリスト教系のカレン民族解放軍とビルマ国軍側にあった仏教中心主義の民主カレン仏教徒軍の複雑な対立構造が関係していそうだが、母親のとつとつとした話からはこれ以上詳しい事は分からなかった。
車で1時間半以上東にある「ポータケ村」に到着するが、カレン族の独特の貫頭衣を羽織った村人達によると、ポータケはさらに山奥のタイとの国境ミャワディー付近で開かれている祭りに参加しており、ここにはいないという。
再び車に乗り、四駆でさえ進むのが困難な悪路を2時間以上も進んだだろうか。最後は道も途絶え、方向感覚がなくなり、自分がどの辺りを走っているのか分からなくなった頃、開けた草原にその祭儀場が広がっていた。祈りの為か男たちは白装束に身を包み、白い鉢巻きを締めている。飛び交う言葉はカレン語ばかりで、ミャンマー語で話し掛けてもまるで通じない。その白装束の男達に守られるように、ナガーと呼ばれる龍の刺繍の入ったゆったりした金の袈裟を羽織ったポータケが座っていた。
日に焼け、顔に深いしわの刻み込まれた男たちの中で、ポータケだけが色白でふっくらしており、ほほ笑む様に口を開くと、ずらりと並ぶ金歯が太陽に反射してきらめく。ポータケが僧侶と共にお経を唱え始める。初めはビルマ語で、次に唱え始めたのはカレンの言葉による祈りの言葉だった。時々説教の様なものを挟むと、列席したいかつい男達の間からすすり泣く声が漏れ、しわくちゃな指でしきりにこぼれる涙を拭いている。
原始のままに広がる灰色の岩山と緑の草原。気ままに歩き、草をはむ牛。金の袈裟をまとったポータケ。それらはじりじりと熱い太陽の下、混然としながらも静かにそこに存在し、確かにこの世のものと思えない不思議な光景だった。何故ポータケが仙人になったのかは分からない。
長く続く国軍と少数民族、そして同じカレン民族同士の対立、戦地に住居を追われ、教育も満足に受けられない子供達。ヤンゴンの大学まで卒業し、そのまま穏やかな生活をヤンゴンで送ることも可能であったのに、何故彼は元の複雑で危険な民族対立問題に、人としてではなく「仙人」という姿で身を投じたのか、彼が今後どのような運命に巻き込まれていくのか、それを知る神はどこにいるのだろうか。
【執筆 : 竹永ケイシロ 】
カレン州パアンはヤンゴンから東へ270キロに位置し、さらに東にあるタイとの国境ミャワディ・コーカレイ間は今なおミャンマー国軍とカレン武装勢力のもみ合いの続く、不安定な地域だ。
ヤンゴンから車で進むこと約5時間半。岩壁の反りたつ中国の水墨画の様な山が幾つも現れ、奇界とも言える風景が広がり始めると、まもなくパアン市内に到着した。市内には太鼓と水牛角をモチーフにしたカレンの旗が掲げられ、改めてカレン族の民族意識の高さを感じるが、市内には「ロンリープラネット」を片手に、ミャワディー側から入国した欧米人のバックパッカーの姿も多く、思いのほかのんびりしている。
「ポータケに会いたい」と言うと、市内から30分ほど郊外にポータケの生まれた村があるというので、さらに車を進める。山からの澄んだ清水を貯めた美しい池のほとりにポータケの生家があった。そこで運よく、ポータケの母親という人に話を聞くことができた。
ビルマ語があまり得意ではないという母親の話によると、ポータケは小さな頃から優秀でヤンゴンの大学に進学し、卒業後パアンに戻って悟りを開き、今では山で信者と共に生活しているのだという。
現在、ポータケが住む広大な土地はキンニュン元首相がカレンを訪れた際に、村の人たちがロンジーにタイポンというビルマ族の正装で迎えたところ、「何故その様な姿をしているのですか、カレン族なのだからカレンらしい服装で構わないのですよ」と言って、カレンの文化を守り、尊重するようにと、その広大な土地をポータケに与えたのだという。この話の背景にはキリスト教系のカレン民族解放軍とビルマ国軍側にあった仏教中心主義の民主カレン仏教徒軍の複雑な対立構造が関係していそうだが、母親のとつとつとした話からはこれ以上詳しい事は分からなかった。
車で1時間半以上東にある「ポータケ村」に到着するが、カレン族の独特の貫頭衣を羽織った村人達によると、ポータケはさらに山奥のタイとの国境ミャワディー付近で開かれている祭りに参加しており、ここにはいないという。
再び車に乗り、四駆でさえ進むのが困難な悪路を2時間以上も進んだだろうか。最後は道も途絶え、方向感覚がなくなり、自分がどの辺りを走っているのか分からなくなった頃、開けた草原にその祭儀場が広がっていた。祈りの為か男たちは白装束に身を包み、白い鉢巻きを締めている。飛び交う言葉はカレン語ばかりで、ミャンマー語で話し掛けてもまるで通じない。その白装束の男達に守られるように、ナガーと呼ばれる龍の刺繍の入ったゆったりした金の袈裟を羽織ったポータケが座っていた。
日に焼け、顔に深いしわの刻み込まれた男たちの中で、ポータケだけが色白でふっくらしており、ほほ笑む様に口を開くと、ずらりと並ぶ金歯が太陽に反射してきらめく。ポータケが僧侶と共にお経を唱え始める。初めはビルマ語で、次に唱え始めたのはカレンの言葉による祈りの言葉だった。時々説教の様なものを挟むと、列席したいかつい男達の間からすすり泣く声が漏れ、しわくちゃな指でしきりにこぼれる涙を拭いている。
原始のままに広がる灰色の岩山と緑の草原。気ままに歩き、草をはむ牛。金の袈裟をまとったポータケ。それらはじりじりと熱い太陽の下、混然としながらも静かにそこに存在し、確かにこの世のものと思えない不思議な光景だった。何故ポータケが仙人になったのかは分からない。
長く続く国軍と少数民族、そして同じカレン民族同士の対立、戦地に住居を追われ、教育も満足に受けられない子供達。ヤンゴンの大学まで卒業し、そのまま穏やかな生活をヤンゴンで送ることも可能であったのに、何故彼は元の複雑で危険な民族対立問題に、人としてではなく「仙人」という姿で身を投じたのか、彼が今後どのような運命に巻き込まれていくのか、それを知る神はどこにいるのだろうか。
【執筆 : 竹永ケイシロ 】