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【コラム】タイ人に愛された日本兵:第2回(全7回)〜クンユアムに残った日本兵

Global News Asia 2022年8月10日 12時0分

 今年も終戦の日が近づいてきた。毎年この時期になるとタイ北部ミャンマーとの国境に接するメーホンソン県のクンユアム警察署長だったチャーチャイ・チョムタワット氏のことを思い出す。氏は在任当時から日本兵がクンユアムに残していった遺物を村人から買い集め、それらを展示するために博物館を創設。そして、村人から聞いた物語やエピソードを書き遺した。それらの文物を後世の若い人たちに伝えることが自分の責務だと言っておられた。タイに住むライターとして、本コラムをチューチャイ氏に献呈したい。

クンユアムに残った日本兵

 日本が戦争に負けて、日本兵はイギリス軍とアメリカ軍に武装解除させられ捕虜となった。日本に帰るときに逃げた兵隊もいた。なぜ逃げたかというとタイ人の妻や子供がいた、またビルマ人の妻や子供がいたからだった。そのためタイやビルマに住みたかった。戦争中にビルマや中国に逃げた人もいた。

 日本の敗戦前に敗走してきたこの日本兵は、タイ国境の洞窟で病気と疲労のため倒れてしまった。その後カレン人に見つかり村で静養し、病気も良くなり元気に回復した。
 村人は「ウラぺ」と名前を付けた。はじめ分からなかったカレン語も、数年後には不自由なくしゃべれるようになった。(中略)

 何十年かビルマにいた。妻は三人いた。一人目と二人目は一緒に暮らしていたが、その後二人とも別れた。ウラぺは酒癖が悪く二人とも耐えられなかった。
 二人とも子供はいなかったが、三人目の妻はタイ人で子供は五人いた。男が三人で女は二人いた。

 平成7年頃ミャンマーでカレン人が捕らえられ始めた。このときウラぺは家族を連れてタイへ逃げた来た。逃げて来たカレン人達はタイのメースリン村に集まって住んだ。

 息子と娘はウラぺのことをカレン人だと言った。しかし本当は、子供たちも妻も違うのではないかと思っていた。妻の両親もウラぺのことをカレン人ではなく日本の兵隊だと思っていた。ビルマ人とカレン人の生活習慣が違うように、ウラぺはまったく違っていた。たとえば風呂のとき、食事のとき、その他いろいろと。たまにウラぺが酔っぱらうと日本語でしゃべった。しかし酔いが醒めると私は日本人じゃあないと否定した。(中略)

 ウラぺは自分の軍服や持ち物は、日本人であることを忘れるためにすでに処分していた。

 日本人である証拠は何も無かった。ウラぺはこの土地が自分の死ぬところだと、口癖のようにいつもみんなに言っていた。

 日本の調査団はタイの担当官とメーホンソン県に相談した。ウラぺは日本人と認めたほうが良いのではないかと。そうすれば日本が国として支援することができる。このことを慧燈財団のボランティアが日本で知らせてくれた。

 平成2年のある日ウラぺのことを知った日本の老人が、自分の親戚ではないかと思い日本からやって来た。その中で女性二人のグループがウラぺは自分の父だと確信して写真を持ってきて見せた。しかしウラぺは私ではないといった。そしてむかし好きだった歌を聞かせた。ウラぺは顔をそむけて逃げた。また好きな笛を吹いて聞かせようとしたが、聞くことはしなかった。二人は泣いた。ウラぺはすべて断って二人は日本に帰った。
 平成9年の終わりころ、この二人が弟を連れてもう一度ウラペに会いに来た。(中略)
 そしてウラぺの唾液をアメリカの送ってDNA鑑定をした。その後ウラぺがこの兄弟の父ではないことが分かったが、しかしウラぺは日本人だとみんな信じていた。顔と体つきや仕草が日本人に似ているからだ。
 ウラペには日本人が話しているのが分かっているようだった。しかし彼は何も言わなかった。最後の最後まで自分は日本人じゃあないと言った。

その後ウラペは老衰で死んだ。平成11年1月16日午後1時、83歳だった。日本人と認めないまま死んだ。
 ウラぺが日本を出て55年くらい経っていた。日本での生活より長い時間を過ごしたウラペは、死んで何も証拠を残さなかった。

 クンユアム警察署には、ウラぺの指紋と手の爪と足の爪と髪を保存してある。これはあとで、日本の方が調べたいときにDNA鑑定できるようにするためだ。

 よくよく考えてみたら、ウラぺの仕草や行為は日本人そのものだった。ウラペはいつも、私は日本人じゃないとすぐに否定していた。日本語が分かっていても喋らない。日本の写真を見るときは思い出を見るようにじっと見ていた。カレンの村に住んでいたときは誰もウラペが何人か知らなかった。しかしその後タイで、日本のいろいろな人に会って土産を貰う。その貰った日本語の本をちゃんと目で追って読んでいた。それでみんなウラぺが日本の兵隊だと確信した。(中略)

 ウラぺが亡くなった日、私が責任者でいろいろ手配した。各方面に連絡もした。日本の親戚と思っている人にも連絡した。そしてメーホンソンのマスコミにも知らせた。家の中を調べたら古い写真が何枚かあった。この中に日本刀が四本写っている写真があった(この写真はウラぺが昔から持っていたと息子は言っている)。
 また家族を写っている小さい時の写真もあった。旧日本兵から貰った写真もあった。
そして一枚の手紙のようなものがあった。内容は「1942年にマレーシアからシンガポールに入る。戦い続けた。1945年ビルマに来た。」これしか書いていなかった。
 このメモはたぶん、ウラぺがタイ人に頼んで書いてもらったのだろう。この写真とメモは奥さんも子供もはじめて見たと言った。

第3回「日タイ友好の戦争博物館」へつづく

本コラムは、故チューチャイ・チョムタワット氏の遺志を後世に伝えるべく書かせてもらっており、過去や現在の戦争行為を賛美したり美化するものではないことを明記させていただく。
【執筆 : そむちゃい吉田】

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