インパール作戦の出発地であり、敗走してきた兵士たちが命からがらたどり着いた地でもあるメーホンソン県クンユアム。この地にはいくつもの慰霊塔が建てられている。わたしがこの地を初めて訪れたのは2013年。タイの日本語情報誌での特集記事の取材としてだった。そして今回9年ぶりにクンユアムを訪れることができた。日本ともゆかりの深いクンユアムの今についてをここで伝えたいと思う。
クンユアムの日本語教師
クンユアムには、メーホンソン県で在留届を出しているただ一人の日本人がいる。クンユアムウィタヤー校で日本語教師をされている蔭山修一先生だ。現在は日本の高校に相当する4年生から6年生18人に第二言語として日本語を教えている。蔭山先生はクンユアムに赴任して9年。赴任当時は人気だった日本語だが、受講を希望する生徒は、年々減り続けているという。それは日本の凋落を如実に表している現状だ。クンユアムもタイの他の地方同様に親日家がほとんどではあるのだが、将来的に役に立つ言語として選んでもらえないということは、生徒たちもそれだけ現実を見据えているのだろう。
蔭山先生が着任から続けていることの一つが、戦没者慰霊碑の清掃だ。日本語クラスの生徒を中心に毎週4〜5人の生徒たちとともに落ち葉やゴミなどを清掃している。しかし、生徒たちの目的は終わった後の食事だ。
「これは仕方ないです。もう戦後何年ですか? 今の子どもたちは、知りもしないし、興味を持つこともない。現実として、普段は満腹に食べられないけど、手伝えばお腹いっぱいに食べられる。そうでもしなければ、掃除なんてしてもらえないです。」と語るように、やがては時とともに、記憶も、もしかしたら慰霊碑自体も風化していくということを冷静に見つめている。
「生徒たちも、9年前と今では違っている。今でも都会に比べれば素朴に見えるかもしれないけれど、スマホが普及して以降は段々と素朴さや謙虚さが失われて来たし、現代病が増えています。都会の子どもに近づいて来た気がします。」
とはいえ、食事で誘っても来ない生徒がいるであろう都会よりは、まだマシなのであろうと思ったが、それも少し事情が違う。
「あくまでも現実的なんです。寮暮らしの生徒の中には、実家にはいまだに電気がない子もいます。寮には、通学するには遠すぎる子たちが住んでいるんですが、彼らの家は山奥にあって、舗装もされていないので、雨季には車で行けません。そこでの仕事といえば畑くらいですから、年収1万バーツ(約38,000円)にも届かない家が多いんです。だから生徒も普段は、食べたいものも我慢している。わたしに付いてくれば、お腹いっぱいに食べられる。育ち盛りですから、この時とばかりに食べまくっていますよ。(笑)」
掃除よりも褒美が目的というわけだが、それでも忘れられて朽ち果ててしまうことを思えば、日本人としては感謝だ。
千葉県のNPOネットワークハーモニーが建設支援したという学生寮には、実家が山をひとつふたつ超えた先にある生徒が暮らしている。そんな子どもたちを支援することで、かつて先達たちがここで受けた恩を忘れずに返している日本人がいる。しかし、それも風前の灯になろうとしている。タイ人も日本人も、戦争の当事者はほとんどいなくなり、これから先には、気にかける人も減る一方であろう。蔭山先生の取り組みで生徒たちの中から、一人でも記憶に留めて続けて、後に伝えてくれたらと願うばかりだ。それでも先生は「そんなこと期待しても無理ですよ。」とあくまでも冷静さを崩さない。だからこそ、この地で9年も長く教員を続けて来られたのだろう。そろそろ引退したい。という先生の後に続いてくる人がいるのだろうか。そのあと、ここの慰霊碑は朽ち果てるに任せるしかないのだろうか。
【取材 : そむちゃい吉田】
クンユアムの日本語教師
クンユアムには、メーホンソン県で在留届を出しているただ一人の日本人がいる。クンユアムウィタヤー校で日本語教師をされている蔭山修一先生だ。現在は日本の高校に相当する4年生から6年生18人に第二言語として日本語を教えている。蔭山先生はクンユアムに赴任して9年。赴任当時は人気だった日本語だが、受講を希望する生徒は、年々減り続けているという。それは日本の凋落を如実に表している現状だ。クンユアムもタイの他の地方同様に親日家がほとんどではあるのだが、将来的に役に立つ言語として選んでもらえないということは、生徒たちもそれだけ現実を見据えているのだろう。
蔭山先生が着任から続けていることの一つが、戦没者慰霊碑の清掃だ。日本語クラスの生徒を中心に毎週4〜5人の生徒たちとともに落ち葉やゴミなどを清掃している。しかし、生徒たちの目的は終わった後の食事だ。
「これは仕方ないです。もう戦後何年ですか? 今の子どもたちは、知りもしないし、興味を持つこともない。現実として、普段は満腹に食べられないけど、手伝えばお腹いっぱいに食べられる。そうでもしなければ、掃除なんてしてもらえないです。」と語るように、やがては時とともに、記憶も、もしかしたら慰霊碑自体も風化していくということを冷静に見つめている。
「生徒たちも、9年前と今では違っている。今でも都会に比べれば素朴に見えるかもしれないけれど、スマホが普及して以降は段々と素朴さや謙虚さが失われて来たし、現代病が増えています。都会の子どもに近づいて来た気がします。」
とはいえ、食事で誘っても来ない生徒がいるであろう都会よりは、まだマシなのであろうと思ったが、それも少し事情が違う。
「あくまでも現実的なんです。寮暮らしの生徒の中には、実家にはいまだに電気がない子もいます。寮には、通学するには遠すぎる子たちが住んでいるんですが、彼らの家は山奥にあって、舗装もされていないので、雨季には車で行けません。そこでの仕事といえば畑くらいですから、年収1万バーツ(約38,000円)にも届かない家が多いんです。だから生徒も普段は、食べたいものも我慢している。わたしに付いてくれば、お腹いっぱいに食べられる。育ち盛りですから、この時とばかりに食べまくっていますよ。(笑)」
掃除よりも褒美が目的というわけだが、それでも忘れられて朽ち果ててしまうことを思えば、日本人としては感謝だ。
千葉県のNPOネットワークハーモニーが建設支援したという学生寮には、実家が山をひとつふたつ超えた先にある生徒が暮らしている。そんな子どもたちを支援することで、かつて先達たちがここで受けた恩を忘れずに返している日本人がいる。しかし、それも風前の灯になろうとしている。タイ人も日本人も、戦争の当事者はほとんどいなくなり、これから先には、気にかける人も減る一方であろう。蔭山先生の取り組みで生徒たちの中から、一人でも記憶に留めて続けて、後に伝えてくれたらと願うばかりだ。それでも先生は「そんなこと期待しても無理ですよ。」とあくまでも冷静さを崩さない。だからこそ、この地で9年も長く教員を続けて来られたのだろう。そろそろ引退したい。という先生の後に続いてくる人がいるのだろうか。そのあと、ここの慰霊碑は朽ち果てるに任せるしかないのだろうか。
【取材 : そむちゃい吉田】