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終戦後に日本人60万人が送られた過酷なシベリアの地 強制労働と食糧不足、極寒のなかで帰国が叶わなかった仲間の無念…100歳を間近にして“抑留体験”を次世代に語り継ぐ2人の切実な願い

北海道放送 2024年8月14日 18時43分

“シベリア抑留”という言葉をご存じでしょうか。第2次世界大戦後、およそ60万人の日本人が、旧ソビエト、いまのロシアなどに連行され、収容されました。

過酷な経験を語れる人は少なくなってきています。命の限り語り続ける人たちの思いです。

来年3月に99歳を迎える、札幌の神馬文男(じんば・ふみお)さん。シベリア抑留の経験者です。

神馬文男さん(99)
「馬齢を重ねただけですよ。カラ元気、どうも、ありがとうございました」

抑留を生き抜いてきた人たちは、神馬さんを含め、全国にわずか3000人ほど。平均年齢は100歳と言われています。

神馬さんは、これまでに、北海道内の学校をまわり、抑留体験を語って来ました。

神馬文男さん(99)
「できるならば、若い人たちにお話をしたいと思う。それを段々できなくなってきてるから」

尋常小学校を卒業し、15歳のころ、海軍の“飛行機搭乗員養成”制度、予科練に合格した神馬さん。

岩国基地での訓練を経て、偵察兵として、旧ソビエトとの国境に近い、朝鮮半島の羅津(ラジン)基地に配属されました。

その後、日ソ中立条約を破って侵攻してきた旧ソビエト軍によって、終戦後、札幌から西に700キロ以上離れたシベリアに抑留されました。

神馬文男さん(99)
「少しでも(作業が)早く終わったら、何をするか…、僕はそこら辺の草地にいって、バッタ、キリギリス、ヘビを取って食べるんですよ」

「収容所に帰って、それから火を焚いて、食べるわけです。口は、牛や馬が草食べたように青い汁」

神馬さんの体験をもとにつくられた紙芝居です。

旧ソビエト兵に命令され、雪の中、丸太を載せたソリを曳く神馬さんの様子が描かれています。

1日の労働のあと、支給されたのは、わずか300グラムのパンと、味がしないスープ。沢山の仲間の死を目の当たりにしました。

神馬文男さん(99)
「朝起きたらね、寝たままになってるんですよね。おいって言っても返事がない。よく見たら死んでる」

「そりで縄で縛って運んで、すぐ近くの山を掘って、そこに埋めるわけです」

抑留された日本人は、およそ60万人。

過酷な労働に加え、食料不足や冬はマイナス30℃を越える寒さで、抑留中におよそ5万5000人が死亡しました。

大勢の犠牲者が出たにもかかわらず、シベリア抑留の体験は、積極的に語られて来ませんでした。背景には当時、帰国した抑留者が、ソビエトのスパイではないかと疑われ、差別されたことがあります。

神馬さんが語り始めたのも、高校の教員を定年退職してからのことです。

神馬文男さん(99)
「僕は再び、前者の轍を踏まず、前の車のわだちに入ってはいけないということをね、強く強く、言いたいと思う。平和を言いたいと思う」

しかし、中学校の歴史の教科書に、シベリア抑留についての記載は、たった3行だけ。講演を受け入れてくれる学校は、少ないといいます。

神馬文男さん(99)
「僕は命の限りね、続けていきたいと思うけれども、98歳だよ。あした死ぬかもわかんない。あなたが意思を継いでくれなかったら、僕はあなたを呪うよ」

戦後79年、ロシアには、今もまだ3万人以上の日本人の遺骨が眠っています。帰ってくることができない仲間たちのために、行動を起こした人がいます。

北海道北部の利尻島。島の南側、仙法志(せんぽうし)地区に、いまも3万人以上の仲間が眠るロシアに向かって立つ、慰霊碑があります。

吉田欽哉さん(98)
「朝来て、お茶やってさ、喋っているから。おいお茶飲めよって」

吉田欽哉(よしだきんや)さん98歳。1945年5月、19歳で陸軍の衛生兵として招集され、旧樺太の野戦病院に赴きました。

その後、樺太(現:サハリン)の対岸のソフガワニに抑留されました。

自らの手で、仲間の遺体を埋めた経験が、慰霊碑を建てたきっかけでした。

吉田欽哉さん(98)
「自分の手にかけて埋めてきたのよ。“迎えに来るから”って言ってきたんだもん。こんなとこで死んだら、誰来る。線香の1本もね、この山の中の、こんなツンドラだよ…誰来る?来ないよ」

線香を上げることができなかった、仲間のために…。

吉田さんは2019年、国の遺骨埋葬地調査に参加。73年ぶりにシベリアを訪れました。

しかし、新型コロナや、ロシアのウクライナ侵攻で、現地での調査は2020年以降行われていません。

吉田欽哉さん(98)
「一つの切れ目ね、戦後80年が経って、後ろ振り返って、ねやっぱり亡くなった人が、まだ3万人もそこらも現地にいるんだから。国に対してさ、どうしてるのと、政府にものを言いたい」

シベリアで目の当たりにした、第2次世界大戦の悲しい結末。仲間の遺骨が帰ってくるその日まで、わずかな機会でも抑留体験者は語り続けます。

厚生労働省によると、抑留中に死亡した人の出身地は、東京に次いで北海道が2番目に多いというデータもあります。

北海道内にも関係者が多いシベリア抑留ですが、学校で抑留体験が語られる機会は、ほとんどないのが現状です。

利尻島の吉田欽哉さんは、戦後80年を迎える来年の夏、慰霊碑の前で、慰霊祭を行うということです。

抑留を経験した人がどんどん高齢になっていく中で、シベリア抑留の悲惨さを語り継いでいけるかどうかは、わたしたちの世代にかかっていると感じます。

神馬文夫さんと吉田欽哉さんのお二人から、それぞれの重たいバトンを渡された思いです。

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