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一升瓶に傘、ゴルフボール 巨人V9時代の右翼手はつらいよ 甲子園ライトスタンドから“飛び道具”

スポーツ報知 2024年6月19日 5時5分

 巨人球団創設90周年記念の連続インタビュー「G九十年かく語りき」の第6回は、V9時代にONの後を打ち「最強の5番打者」として大きな存在感を発揮した末次利光さん(82)だ。大舞台になるほど光る勝負強さで魅了した一方、不慮の事故で選手生命を絶たれた悲運のスラッガーでもあった。現役時代は感情を表に出さないスタイルを貫いた男が、押し隠していた「喜怒哀楽」を語る。(取材・構成=湯浅 佳典、太田 倫)

 僕が怒るというより、怒りをぶつけられるようなことならよくあった。特に昔のビジターの球場はひどかったからね。

 大洋の本拠地だった川崎球場は狭いし、ファンとの距離がやたらと近い。酒を飲みながら「おう、末次!」なんて絡んでくる常連が5、6人いた。若い頃はこちらもいちいち反応して、金網越しにけんかになった。何年かすると逆に仲良くなっちゃったけどね。

 甲子園のライトスタンドもひどかった。僕は右翼手だったから、いい標的だった。ヤジだけならまだいいけど、物が飛んでくるんだ。牛乳瓶や、傘、ゴルフボール…。ゴルフボールは投げやすいせいか、よく“飛び道具”に使われていた。

 中でも一番ひどかったのは、一升瓶だよ! 飲んだ後の空き瓶が投げ込まれて。さすがに身の危険を感じたね。

 甲子園で、ある時8回にヘルメットをかぶって守備に就いた。そしたら、今度はもっと至近距離に物が飛んでくるんだ。一応は遠慮して、ギリギリ当てないように物を投げてたんだね。それが、ヘルメットをかぶって出てきたもんだから…。「ようし、それなら当たっても大丈夫だ、末次の野郎、覚悟を決めたんだな」てなもんだったのかもしれない。あのときは15メートルくらい定位置より前に守った。打球が来たら間違いなく三塁打だったな。9回はヘルメットを脱いで、また守備に就いた。

 幸い、物が直撃したことはない。今でこそ笑い話になるけれど、当時は正直、怖かったよ。

 ◆末次 利光(すえつぐ・としみつ)1942年3月2日、熊本・人吉市出身。82歳。鎮西、中大を経て、65年から13年間巨人でプレー。71年には日本シリーズMVP。74年にはベストナインにも輝いた。引退後は2軍監督、スカウト、編成部長などを歴任し、高橋由伸、上原浩治、阿部慎之助、亀井善行らの獲得に尽力した。74年に民夫から改名。

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